シンハラ王朝の古都。スリランカの中央部に位置する。高さ195メートルの巨大な岩塊(シギリヤ・ロック)上に宮殿が築かれた。
カーシャパ1世の都
スリランカでは紀元前数百年にシンハラ族による統一的な国家が成立したと考えられており、紀元前4世紀にアヌラーダプラが首都となった。紀元455年にアヌラーダプラで即位したダーツセーナ1世は、477年に息子のカーシャパの主導するクーデターによって王位を簒奪され、処刑される。
王位についたカーシャパ(カーシャパ1世)は、アヌラーダプラから東南約60キロにあるシギリヤの高さ195メートルの岩山に砦と新たな宮殿を造営し、そこを首都とした。インドに逃れた異母弟モッガラーナを警戒したためともいう。
シギリヤはシンハ(獅子)とギリ(岩)、すなわち「獅子の岩」を意味するという。現在でも宮殿にさしかかる入口にあたる北面にライオンの前足の爪の部分が残っており、かつてはその上に巨大な獅子の頭部の形をした建物があった可能性があるとされる。
しかし495年、はたして異母弟モッガラーナがシギリヤに侵攻し、カーシャパは自害して果てたといわれる。モッガラーナはただちに都を元のアヌラーダプラに戻したため、シギリヤはわずか11年で首都としての歴史を閉じた。以後はモッガラーナから寄進を受けた仏教僧によって維持されたという。
シギリヤ遺跡
シギリヤ・レディ
シギリヤの絶壁の中腹にはカーシャパ1世時代に描かれたフレスコ壁画が残っており、今日シギリヤ・レディと俗称されている。
一説には天女ともいわれる18体の半裸の女性たちは、おのおの供養のための花を持ち、いずれも北を向いて描かれている。シギリヤの北西約3キロの地点に涅槃図のあるフッデランガーラ寺院があり、女性が血はこの寺院の方向を指しているとも考えられている。
庭園遺構
宮殿区画西部(シギリヤ・ロックの西側)において、宮殿東西軸線上の中央通路に沿って水を自在に用いた庭園(水景園)が存在し、大きく4つの区画(「小水景園」「第一水景園」「第二水景園」「第三水景園」)からなる。
「小水景園」は東西30m、南北90m。5つの小区画からなり、それぞれレンガ建造物と建物の外周を囲むような池、ならびに蛇行して流れる水路で構成される。池や水路の底は石灰岩ないし大理石で舗装されている。
「第一水景園」は水景園の4つの区画の中では最大の面積を持つ。水深のある方形の池の中央に方形の島を置き、島から池を横断して四辺に通路が延びる四文区園の形式を持つ。四分区園部分はレンガ塀で囲われ、その塀が中央の島から延びる通路と交わるところには装飾的な門が配置されていた。
「第二水景園」は噴水庭園とも呼ばれる。大きな島状台地を囲む濠に南北両側を挟まれた中央通路沿いの幅の狭い区間は、低い西部と高い東部に1mほどの段差で区分されている。東部の中央通路南側では、底面と緑石に大理石を用いた幅1mほどの浅い蛇行水路が発掘されており、これが東から西へと水を運ぶ役割を果たしていたとされる。
「第三水景園」は東側に続く宮殿区画の入口前の庭園で、中央通路を挟んで南北両側にⅬ字形の大きな池が配される。さらに南Ⅼ字池の南側には長方形の池、北Ⅼ字池の北側には八角形の池が備わり、それぞれL字池への水の供給減となっている。
シギリヤ遺跡の水景園を構成する4つの区画は、規模や空間構成あるいは意匠において多様。また開渠や暗渠で相互に通水するなど、綿密な計画のもとに一体的に造営された可能性が高いという。
これらの水景園は、5世紀第4四半期のカーシャパ王の時代のものであることは間違いないとされる。複雑で精巧な水景園がこの時代に造営できた背景に、紀元前から営々と灌漑地の造成を続けてきたスリランカの農水利用技術があるとの指摘もある。
参考文献
- 土谷遥子 「スリランカの美術」(『ソフィア : 西洋文化ならびに東西文化交流の研究』40巻3号 1991)
- 小野健吉 「シギリヤ遺跡の庭園遺構」(『奈良文化財研究所紀要』 2013)







