戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

上田 太郎右衛門尉 うえだ たろうえもんのじょう

 豊前小倉細川家の家臣。宇佐郡の御郡奉行をつとめた上田忠左衛門の弟。当主細川忠利によって召し抱えられた。細川家中では葡萄酒やアヘンの製造を担う一方で、医師としての役割も期待されていた。

細川忠利のリクルート

 細川家で編纂された「先祖附」という史料によると、上田太郎右衛門は寛永三年(1626)に当主細川忠利に新知300石を拝領して、御小姓組に召し加えられたという。

 寛永三年(1626)閏四月二十八日付の「奉書」(殿様の命令を伝える文書)にも太郎右衛門が召し抱えられた経緯が記されている。これによると、新規の奉公人の召し抱えは幕府が禁じる「御法度」であったが、細川忠利は「太郎右衛門儀ハ前廉ゟ御存之者儀」(以前より知っている者)だから問題ないとして採用を推進。細川家は、内裏(大里・現在の福岡県北九州市門司区の南西部)にいる十右衛門という家臣を通じて、太郎右衛門に小倉で召し抱えて扶持と家を与えると打診する。当時、百姓家で内作をしていた太郎右衛門はこの誘いに喜び、了承の旨を回答した。

 これを受けた細川忠利は、小倉でどこでも本人に希望させて家を拝領するようにとの意向を示す。さらに太郎右衛門の家族の人数について質問し、二十四・五人いて馬も1疋所持しているとの回答を得た。

 五月七日、忠利は「上田忠左衛門尉弟太郎右衛門尉」に明日の五月八日より15人扶持を遣わす「御印切手」*1を調えて渡すよう家老の松井興長に命じている。このことから、太郎右衛門が上田忠左衛門という人物の弟であったことが分かる。忠左衛門はこの当時、豊前国宇佐郡の御郡奉行(地方農政を担当する行政官)であった。

 五月十一日、太郎右衛門には惣奉行の浅山清右衛門が住んでいた家を与える辞令をおりる。さらに十月二十三日、宮部久三郎(仲津郡京都郡の御郡奉行)と志水市兵衛の知行地が与えられることになった。この知行地の中には、後に太郎右衛門が葡萄酒造りを行う仲津郡大村があったとみられる。

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南蛮の技術

 細川忠利に召し抱えられた上田太郎右衛門は、さっそく精力的な働きをみせる。寛永三年(1626)、太郎右衛門は薬用として、萩の油と「ねり」(ねり薬)を造り、京都にいた忠利に送り届けている。

 その後、少なくとも寛永四年(1627)からは「がらみ」(ヤマブドウ)を材料としての葡萄酒造りに着手。史料上では寛永七年(1630)まで毎年2樽ほどの葡萄酒を造り、細川家に納めている。同時に細川忠利の指示により、甥の上田忠蔵(忠左衛門の子)らにも葡萄酒造りを教えていたらしい。

 また寛永六年(1629)には、太郎右衛門が「あひん」(アヘン)の製造も行ったことが細川家の史料から分かる。なお、葡萄酒もアヘンも薬用を目的として製造されていた可能性が指摘されている。

 中津に隠居していた細川三斎(細川忠利の父)も太郎右衛門に興味を持っていた。寛永四年(1627)、細川三斎が忠利に対し「上田忠左衛門弟」を寄越してくれるよう要請。忠利が以前派遣した料理人が作った「黄飯」が、自分が知っている黄飯と違うというのがその理由だった。さらに「鳥めし」や「ナンハン(南蛮)料理」もさせてみたいのだという。黄飯はスペインのパエリアにルーツがあるともされる。

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下村已安の治療

 寛永七年(1630)三月、中津の細川三斎付きの下村已安*2という医者が病気となる。腫物が出来ていて、中津には良い医者がいないということで、細川忠利は小倉の八喜慶閑という外科の医者を派遣。しかし、それでも治療が大変難しいというので、三月十二日、忠利は上田太郎右衛門にも中津に急行して治療するように命じた。

 三月十四日、細川三斎付きの家老が、太郎右衛門の派遣について已安が感謝していることや、太郎右衛門と慶閑が相談して昨晩より内服薬を与えていることなどを報告。さらに、一昨日の夜に慶閑が腫物を切開して膿がたくさん出たことや、その後に身節が所々痛むようになったこと、その原因について前述の内服薬に当たったと已安が述べていることなども書状に記している。

 太郎右衛門と慶閑は内服薬の使用をためらったが、周囲は已安を説得して薬を飲ませることにした。しかしこの二日後、下村已安は亡くなってしまった。細川三斎付きの家老は、「この外科の医者たちの薬に中(あた)って死んだのではない」「病気が重かったから薬が中ったのだ」とする已安の言葉を伝えている。

 この時使用された薬は、太郎右衛門が製造したアヘンだった可能性が指摘されている。アヘンは強力な鎮痛・催眠効果を発揮するが、大変危険な薬でもあり、この為、太郎右衛門と慶閑も使用をためらっていたのかもしれないという。

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平戸の上田忠左衛門弟

 上田太郎右衛門が出仕する少し前、細川家は平戸に住む上田忠左衛門弟とやり取りをしている。

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 元和九年(1623)四月、細川忠利は、上田忠左衛門の子の忠蔵を平戸へ派遣して、「忠蔵おぢ(叔父)」から、石などを引く色々な技術を習わせるようにと命令。「万力」という重い物を引く道具があるそうなので、平戸で誂えて取り寄せ、重宝なものなら内緒で習うようにとも指示した。

 六月五日、忠利は惣奉行集に対し、万力の購入費用とみられる銀子2貫目の給付を命じた。あわせて「普請などの儀ニ付而家中之重宝ニて候」と述べ、その意義を強調している。上田忠蔵は翌年、御天守米10俵を忠利から拝領しているので、この時の万力導入は一定の評価を得たことが推定される。

 寛永三年(1626)二月十日、上田忠左衛門は小倉で裁判を受けていた*3。細川忠利は忠左衛門の息子の処遇も検討しており、その時の史料に、忠左衛門の二番目の息子加左衛門が、平戸の「忠左衛門弟」の所に養子に行っていることが記されている。

 さらに寛永三年二月十三日、忠利は肥前平戸の我貴という商人(細川家の朱印船貿易を担った唐人の商人と考えられている)に修理のために預けていた「とけい」(南蛮時計か)について指示。あわせて「上田弟」にもよく申し遣わすよう命じている。

 これらのことから、この上田忠左衛門弟は、平戸に居住し、かつ万力や時計といった南蛮の技術にも詳しい人物であったことが分かる。

 平戸の上田忠左衛門弟は太郎右衛門に比定されるが、別人である可能性もある。しかし、上田家には様々な南蛮技術を有する人物がおり、細川家も高い関心を寄せていたことはうかがえる。

参考文献

  • 後藤典子 「一六二〇年代の細川家の葡萄酒製造とその背景」(公益財団法人永長文庫・熊本大学永青文庫研究センター 編 『永青文庫の古文書 光秀・葡萄酒・熊本城』 吉川弘文館 2020)

夕陽を浴びる小倉城 from 写真AC

*1:細川忠利のローマ字決裁印が捺された辞令のことを指す。

*2:武田信玄に仕えた山本勘助の孫にあたるという。

*3:上田忠左衛門は宇佐郡の郡奉行をしていたが、寛永二年(1625)に郡内の惣庄屋との間で問題を起こし、裁判の被告となっていた。