戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

無人島(小笠原島) ぶにんじま

 現在の東京都区部から南南東約1000キロメートルの太平洋上にある島嶼。江戸期の17世紀後半、漂流船の帰還を契機として日本で存在が知られるようになった。当時は「無人島」(ぶにんじま)と呼ばれた。延宝三年(1675)、幕府は「唐船造之御船」を派遣して調査を行い、調査隊により様々な鳥や植物の生息が報告された。

商船の漂着

 寛文九年(1669)十月末、阿波国海部郡浅川浦を出た商船が、十一月初頃に紀伊国宮崎に着く。同月十五日、蜜柑を積んで江戸に廻送するために宮崎を出船したところ、嵐に遭い、沖へ流された。

 2ヶ月近くを漂流したのち、ついに小笠原諸島の母島に流れ着いた。船頭の勘左衛門は死んだが、5人の乗組員はそこで50日ほどを過ごし、船の修理を終え、食料を蓄えて、4月ごろに北へ向けて出帆した。

 漂流から7ヶ月後の五月三十日に八丈島に到着。六月七日の昼頃に伊豆国州崎浦に到着して無事に帰還を果たし、このことが幕府に報告された。

幕府による唐船派遣

 それから3年後の延宝二年(1674)五月、幕府勘定頭は長崎代官・末次平蔵(茂朝)に宛て、平蔵が建造に関わった大型の「唐船造之御船」*1無人島調査に派遣することを伝えている。

 船頭には嶋谷市左衛門が任じられた。市左衛門は泉州堺出身で、日本人の海外渡航禁止以前には中国との貿易に従事した経験も持つ。勘定所に召し出された市左衛門は、勘定奉行・杉浦内蔵允らから、辰巳の方にある「相知不申候嶋」の「嶋見届」が命じられた。

 また末次平蔵手代の中尾庄左衛門が上乗として同行。市左衛門の子の嶋谷左郎右衛門も調査に加わっている(長崎歴史文化博物館収蔵「無人島図」)。

無人島調査

 延宝三年(1675)閏四月五日、嶋谷市左衛門らが乗り込んだ「唐船造之御船」は伊豆国下田を出船。同七日に八丈島に到着。同九日に同島を出帆して、同二十九日に無人島(父島)に着岸した。

 その後、調査隊は35日にわたって小笠原諸島の地図の作成や島内調査を行い、六月五日に無人島を出船した。帰帆の際には、現在の父島と母島にそれぞれ祠を建て、天照大神八幡大菩薩、春日明神の三社の神を祀ったという(「嶋谷市左衛門無人島へ乗渡覚書」 )。

 船は六月十七日に伊豆下田に着き、同月十九日に江戸品川へ戻った。

 「柳営日次記」延宝三年(1675)六月廿一日条には下記のように記されている。

八丈嶋より巽之方洋中ニ嶋国有之、人倫不在、珍木珍鳥等有之間、先年紀州商船漂着彼嶋右之旨趣依申之、去年五月仰伊那兵右衛門*2唐船造之船差渡、彼嶋頃日帰帆、珍木珍鳥其外色々珍物依持来今日献上之

 六月二十九日、将軍徳川家綱はこれら無人島から持ち帰られた品々を上覧。幕府にとって、無人島調査は一大イベントであったことが知られる。

無人島の観察記録

 「山角氏覚書」の「人無島渡海之覚」には、調査で得られた情報や、島に生息する鳥、植物、近海の海洋生物等が記されている。

 これによれば、「元島」(父島)には前後に「湊」が二つあり、下記のような生物が生息していた。

一 四足之鳥大きさ鳩程、つらハ猿のことく、羽はかふむりことく、但、是琉球のかふむりのよしニ候、
一 海老 大さ六尺程、 一 かき色の鷺、 一 黒鳩大キ也、
一 目白大キ也、 一鳶 一亀*3
一 魚 一 檳榔樹の木、 一 やすほの木、
一 桐ニ似申す候木、 一 かしやんの木しやかかしらのことく成る実なり申候、
一 桑の木、 一 せんたんの木、 一 榎の木、
一 山椒ノ木 実いかにもこまか也、 一 めうばん(明礬) 一 ろうはん(緑礬)

 「沖之嶋」(母島)にも二つの「湊」があり、下記のような鳥や植物がみられた。

一 雉子ニ少ちいさき鳥、せい高く惣毛るり色、足赤く成程足はやにかけり候、えさを見せ候へば、くれゝゝとなき申候
一 黒鳩、 一 ひんろうしの木、 一 やしほの木、
一 かちやんの木、 一 犬ゆつりはニ似申候木、 柿のことく成実なり申候
一 二かい程の大木葉はさゝけニ似申候木、実も同似申候、

 また無人島を描いた精図の一つ「辰巳嶋之図」(南波松太郎氏蔵)には、「もろもろの鳥など少しも人をおじ不申、手にもとまり申様御座候也」とも記されている。無人島の鳥が、人を警戒する様子が無かったこともうかがえる。

小笠原氏の訴訟

 調査隊の帰還から2ヶ月後の延宝三年(1675)八月、小笠原長宅から無人島の領有を主張する訴訟が起こされる。

 文禄三年(1593)、軍検使として朝鮮に渡海した小笠原貞頼(長宅の祖父)が、帰国の途次に漂流して無人島(小笠原諸島)を発見。貞頼は豊臣秀吉に地図と土産を献上し、領地として安堵され、徳川家康からも島の開発と苗字をもって島名とすることが許可された、という由緒が伝えられていたという。

 長宅は渡航にあたっての費用の拝借を幕府に願い出たこともあり、渡海は許可されなかった。さらに27年後の元禄十五年(1702)にも再び渡海を幕府に願い出たが、「故有り」という理由からこれも許可されなかった。享保七年(1722)、小笠原長宅の子の貞任が三度目の訴訟を起こし、渡海を請願。しかし幕府に吟味を断られ、訴訟を取り下げている。

 享保十二年(1727)、延宝三年調査時に献上された唐木・薬草を描いた極彩色の屏風が将軍・徳川吉宗の目にとまる。このことから幕府は無人島調査のための御用船派遣が計画された。

 これを知った小笠原貞任が、改めて無人島領有を主張し、吟味にあたった町奉行大岡忠相が由緒を認めたことから、幕府は御用船派遣を中止し、貞任に勝手次第に渡海して開拓するようにと命じられた。

 幕府の許可を得た貞任は伊勢国にて大船を造り、上下150人の船団を組み、享保十八年(1733)十一月二日に東南に向けて出発した。しかし、無人島に到着したのかどうかは、不明と伝えられる。出立したのは貞任の甥の民部長晃だったともされる。

 それから2年後の享保二十年(1735)十月、小笠原氏と無人島の関係が疑問視され、貞任は「重追放」に処されたという。

幕府の情報収集

 小笠原氏の動向の一方で、幕府は無人島の情報収集を進めていた。享保四年(1719)、延宝三年調査時の生存者からの聞き取り調査が行われ、幕府に書付が提出されている。

 さらに享保十二年(1733)に羽山喜左衛門が伊豆代官・山田右衛門(邦政)に提出した無人島渡海に関する書付がある。これによれば、渡海の時節は三、四月頃から六、七月までであり、そのため前年の秋中に八丈島まで来て、三、四月の順風の時に出帆すべきとしている。

 また船の大きさについても、八丈御用船のような400石積船では覚束ないので、丈夫な1000石積以上が必要とする。水手の人数は最低でも20人。新島や三宅島から巧みな水手を募集すべきであり、案内者は小島、青ヶ島の者たちが当該海域においては他国船の水手よりも巧者であろうとの意見が記されている。

 無人島渡海調査には、渡海時期と大船が必要不可欠な条件でとして提示されていることが分かる。幕府が享保年間の渡海調査を諦めた背景には、大船の調達ができなかったことにあった可能性も指摘されている。

対外関係の中で

 享保年間以後も幕府による無人島調査は、何度か計画・実施されたが、いずれも無人島へ到達することはなかった。一方で、国際関係の変化が無人島に及ぶようになっていく。

 天明五年(1785)、林子平が著した『三国通覧図説』が出版される。子平は外国からの侵略を防ぐための方策として辺境地の開発を進める必要性を説き、無人島にもふれて、その経済的可能性(耕作、交易)を示していた。なお「小笠原」という名称は、この『三国通覧図説』により、初めて使われたとされる。

 そして1827年(文政十年)、イギリス船ブロッサム号艦長ビーチーが無人島に来航して英国領を宣言。1830(天保元年)にはアメリカ人ナザニエル・サボリーらがハワイ系移民の男女20人余りと移住して開拓に着手する。

 1835年(天保六年)、駐マカオ貿易監察官チャールズ・エリオットが、イギリス政府に無人島への軍艦派遣を要請。1837年(天保八年)、イギリス政府は軍艦ロウレー号を派遣して同島の調査を実施させている。

 嘉永六年(1853)、アメリカのマシュー・ペリーは日本渡航の途次に小笠原諸島の父島二見港に寄港。サボリーより貯炭地の敷地を買収し、サボリーを植民政府長官に任命したことから、英米両国間に紛議が生じることになった。

 文久元年(1861)、幕府は外国奉行・水野忠徳らを乗せた咸臨丸を小笠原諸島の父島と母島に派遣し、同島の日本領有を宣言。小花作助ら6人の吏員を父島に在留させ、同二年に八丈島の住人30余人を移住させて開拓を進めたが、翌三年に吏員は引き上げ、開拓事業は中断された。

 明治八年(1875)、外務省出仕田辺太一、内務省出仕小花作助らが小笠原諸島への出張を命じられ、在住のアメリカ人71人に小笠原諸島の日本領を宣言し、翌九年同島を内務省所管と定めた。

参考文献

小笠原諸島 父島 from 写真AC

*1:寛文九年(1669)、幕府は長崎代官の末次平蔵(茂朝)に500石積みの唐船の建造させたが、この船は実際のところ1000石から1500石をゆうに積むことのできる大船であった。同船は寛文十三年(1673)正月、江戸から長崎に向かう途中に沈没したが、幕府は寛文十二年(1672)にこの唐船を改良した新船建造を命じており、改良船は沈没した初代船を超える大型船であったという。

*2:伊那兵右衛門尉忠易。伊那忠公の長男で、伊那忠次の孫。寛文六年(1666)に伊豆代官となる。

*3:無人島之図では「大亀」と記されている。