平戸の領主・松浦氏の家臣。豊後出身のキリスト教徒。松浦氏の使者として平戸とフィリピンのマニラを往復した。
ルソン島への渡航
天正十三年(1585)、フィリピンのルソン島北部カガヤン地方に日本からの渡航船が漂着し、マニラに回航された。この船には11名の日本人が乗船しており、その代表してバルタサルという人物がいた。
この前年の天正十二年(1584)、平戸にスペイン人聖職者が漂着していた。バルタサルらは、イエズス会日本支部準管区長ガスパル・コエーリョの指示で、彼の書簡を携えてルソンに渡来していた。
またバルタサルは平戸領主・松浦鎮信の書簡も、マニラに届けている。当時の平戸松浦氏は、ポルトガルに代わる新たな貿易相手先を模索しており、同氏の思惑も含んだ渡航であったと思われる。
バルタサルら日本人は、10ヶ月程度の滞在の後にマカオ経由で日本に帰国した。
ルソン島への再渡航
天正十五年(1587)春、今度は40名にのぼる日本人がマニラに来航し、マニラ総督サンティアゴ・デ・ベラに松浦鎮信とその弟ドン・ガスパルの書簡を届けた。記録には、この渡航団の中心人物の一人に吉近はるたさ(ドン・バルタサル)の名がみえる。
吉近は松浦氏の書簡を届けている点から、先ほどの1585年渡航のバルタサルと同一人物と推定される。
また吉近の船は武器をはじめとする多くの商品を搭載していた。実態は、貿易を目的とした渡航であったとも考えられる。
ルソン島原住民武装蜂起計画
1587年六月二十六日付のメキシコ副王宛デ・ベラ書簡には、吉近が伝えた内容が記されている。これによれば、松浦氏とその友人・小西行長らの意思として、兵士を主体とする軍事協力をデ・ベラ総督に提供する用意があるというものだった。
しかし、吉近のこの提案の裏には、日本人のファン・ガヨも関与したルソン島原住民の武装蜂起計画が隠されていた可能性が高い。スペイン側の軍備不足を見て取った吉近が、軍事協力を口実に兵士と武器をルソンに送り込もうとしていたとも考えられる。
吉近のマニラでの蠢動については、中国人アントニオ・ロペスが1593年の聴聞で証言している。それは、ルソンのイスラム系原住民の首領ドン・アグスティンを首謀者とした武装一斉蜂起の計画に、日本人ドン・バルタサル(吉近)が加担していたというものだった。このことをロペスは、1592年(天正二十年)の平戸滞在中に、同地の中国人キリスト教徒から聞いたとしている。