沖縄本島南部、国場川河口が形成する潟を天然の良港とする港町。海洋貿易国家・琉球王国の外港として、東シナ海の一大中継港を担って栄えた。
海洋貿易国、琉球の台頭
1372年(応安五年)、琉球は中国・明朝の使者を迎え、同国との通交を開始した。この時、大型ジャンク船の無償供与や技術援助などを受けたことで、海洋貿易国として台頭をはじめる。その後、明朝が海禁政策をとると、中国の対外貿易を肩代わりする形で、中国と東南アジア諸港(アユタヤ、マラッカ、パタニなど)、朝鮮、日本を結ぶ多角的な中継貿易を展開する。
首里王城正殿に掛けられた鐘には、「舟楫をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり」と刻まれている。琉球王国自身の、国際貿易における自負の表れと考えられる。
日本と東南アジアの船が集まる
もともと那覇港は、サンゴ礁内の小島を利用して作られた港だったという。小島周辺の礁湖内は潟地であり、1451年(宝徳三年)、ここに王都・首里との間を結ぶ、石橋を含んだ通路(長虹橋)が造られ、首里城の外港としての機能が拡充された。
交易市場として多くの船が集う那覇の繁栄は、他国の史料からもうかがうことができる。1456年(康正二年)、琉球に漂着した朝鮮人の証言によれば、「市材江辺、南蛮日本国中原商船来互市」という状況だった(『世祖実録』)。朝鮮の申叔舟が1471年(文明三年)に完成させた『海東諸国記』にも、日本と東南アジアの商船が「国都の海浦」(那覇)に集まり、琉球人がそこに「肆」(店)を置いて取引をしていると記されている。
この貿易船の来航と交易に対応するために、那覇では大型貿易船の係留地である唐船グムイが整備された。あわせて硫黄城や御物城など、貿易品の倉庫や外国使節への迎賓館なども置かれていた。
また那覇には主に福建省出身の中国人らが集住する「唐営」(久米村)が形成される。彼らは航海技術・航海スタッフの提供・外交文書の作成・翻訳など、琉球の外交・貿易の根幹を支えていった。
16世紀の変化
しかし16世紀、中国商人の活動が本格化し、さらにヨーロッパ人、日本人などの勢力が東シナ海、東南アジアに進出するようになる。この中で琉球王国の貿易事業はしだいに後退していく。
この中で那覇は、日本と中国、あるいは日本と東南アジアを結ぶ中継港・渡航拠点へと機能を変化させていくことになる。