糸芭蕉からとれる繊維を用いて織られた布。16世紀後半以降、芋布(太平布)とともに琉球王国を代表する織物となった。同国で着衣として用いられた他、国外にも移出された。
済州人が目撃した芭蕉布
琉球王国における芭蕉布の生産開始年代は、諸説ある。史料上ではっきりと確認できるのは『朝鮮王朝実録』の1546年の記事で、琉球に漂着した済州人・朴孫等が、現地で芭蕉から糸をとる様子を目撃している。
芭蕉の繊維はだいたい三層に分かれ、その最も中心の繊維が最上とされている。目撃した済州人も、中心部の繊維の細さと「雪ノ如」き白さを記し、「女服」に用いられると報告している。
中国への朝貢品
芭蕉布は16世紀後半頃からは、琉球王国から中国への朝貢品にもみえるようになる。「蕉布」が10匹贈られた1587年(天正十五年)以降、1596年(慶長元年)に「細嫩葩蕉布」が40匹、1602年(慶長七年)に「細嫩蕉布」20匹、「灰全細嫩練光蕉布」20匹、1603年(慶長八年)には200匹の芭蕉布が中国に贈られている。
芭蕉布を要求する薩摩藩
戦国期の日本への移出状況は不明。しかし慶長十六年(1611)、薩摩藩は琉球王国に対し、「上布六千端、下布壱万端、から芋1300斤」の他に「はせを布 三千端」の貢納を要求している。17世紀初頭の日本において、かなりの需要があったことがうかがえる。
また正保四年(1657)刊行の『毛吹草』には、薩摩の産物として「太布」とともに芭蕉布がみえる。当時、薩摩藩を通じて芭蕉布が日本に流通していたことが分かる。
参考文献
- 田中俊雄・田中玲子 『沖縄織物の研究』 紫紅社 1976