戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

パレンバン Palembang

 スマトラ島東南部、ジャワ海に注ぐ大河・ムシ河から約90キロメートル遡行した地点に形成された港市。内陸物資の集積地であり、マラッカ海峡の要衝を占める国際貿易港としても栄えた。

 ムシ河の川幅は約400メートル、港の水深は18~20メートルある。高度も海抜2メートルに満たないため、外洋船の入港も可能であった。

シュリーヴィジャヤ王国の王都

 シュリーヴィジャヤ王国は7世紀末に勃興し、インドネシア西部およびマラッカ海峡地域における一大交易勢力を築いた。その王都は、11世紀半ばまでパレンバンにあったといわれている。

日本への「南蕃船」派遣

 15世紀始め頃から華僑の進出がみられ、その頭目である施進卿は明朝に朝貢して「旧港宣慰使」に任じられている。この施進卿が派遣した「南蕃船」は、1408年(応永十五年)と1412年(応永十九年)に日本の小浜に来航し、「日本国王」に生きたや孔雀、鸚鵡などを献上している。

 その後、1419年(応永二十六年)には施進卿の子の済孫(列智孫)が派遣した南蛮船が南九州にも着岸し、翌年博多に廻航した。この時期、パレンバン船は通交・交易圏を拡大するため、かなり広域で活動していたことがうかがえる。

琉球との通交

 なお博多へ廻航した船は破船したらしく、1421年(応永二十八年)、九州探題・渋川氏は一行を琉球へ送った。琉球政府はシャム(タイ)への渡航船に彼らを乗せて、パレンバンに転送させている。

 これを契機として、琉球パレンバンは通交関係を持った。1428年(正長元年)、琉球からの最初の貿易船がパレンバンに入港することになる。

パレンバンでの交易

 16世紀初頭のパレンバンの交易の様子については、トメ・ピレスも『東方諸国記』に書き留めている。パレンバンからマラッカへは毎年10隻ないし15隻のジャンクが来航し、主要な商品である米の他にも多量の野菜や肉、奴隷や木綿、鉄、蜜蝋、黒い安息香などを運んできたという。

周辺勢力による攻撃

 16世紀後半、ジャワ出身の貴族によって建てられたパレンバン王国の王都となり、17世紀には後背地で栽培された胡椒の輸出港として栄えた。

 ただ、交易をめぐる周辺勢力の脅威は大きくなっていた。1596年(慶長元年)には、西ジャワの港市国家バンテンによって200隻からなる大艦隊の攻撃を受けている。そして1658年(万治元年)、胡椒の独占取引権をねらうオランダの艦隊により、パレンバンの町は破壊しつくされてしまう。

 その後は復興が進み、1662年(寛文二年)の記録では川岸に1000から1500戸、陸地側に同数ぐらいの家があったとされている。

参考文献