戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宗延 そうえん

 和泉国堺出身の貿易商人。琉球渡航して琉球王府に仕え、東南アジアとの貿易に従事した。『蒙姓家譜』によれば、宗延は嘉靖二十二年(天文十二年、1543)の生まれで、もとは日本の「境(堺)」の住人であった。唐名は蒙茂昌、俗名を川崎利兵衛といった。

数寄道具を求めて琉球

 万暦十年(天正九年、1582)九月、宗延は数寄道具を求めて赴いた長崎で、琉球に「珍器」があるという話を聞く。そこで鹿児島に行き、島津氏の家老に「添状」を要請して、琉球渡航した。当時、島津氏が琉球渡海朱印状を発給するためには家老の「添状」が必要であり、宗延は琉球渡航する際に島津氏の朱印状発給を受けたものと思われる。

 こうして琉球に渡った宗延だったが、結局求めていた数寄道具は得られず、そのまま琉球に滞在して王府に仕えた。

東南アジア貿易に関わる

 その後、万暦二十六年(1598)八月、宗延は琉球王府より東南アジアへの貿易業務を担う「南蛮才府」職に就いた。「南蛮」は東南アジアを指し、「才府」とは「在船使者」ともいい、貿易取引を担当する役職。

  万暦年間(1573~1619)、琉球からの使節が「南蛮属島呂宋」へ「倭人」の「自安大円宋治」とともに交易を行った例がある。1570年のシャム派遣船以降、琉球では東南アジアとの国営中継貿易が途絶するが、それ以後もルソン島を交易地として「倭人」が介在する形で貿易を継続していたことがうかがえる。

  ヤマト(日本)から琉球渡航し居住した宗延も、琉球の東南アジア交易に関わる役職に就き、ルソン島へと渡航したものと考えられる。

 なお宗延は「南蛮才府」に就いた同年の万暦二六年(1598)十二月、糸数地頭職に任じれた。これにより宗延は親雲上(ペークミー)となり、琉球における上級士族となった。

参考文献