戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

カガヤン Cagayan

 フィリピン・ルソン島最北部のカガヤン地方の港町。同地方のカガヤン河の河口にあった日本人集落。史料上に特定の名はないが、便宜上、この項では「カガヤン」とする。

 カガヤン地方は、地理的にはバシー海峡を隔ててすぐ北に台湾がある。1570年(元亀元年)のスペイン人によるマニラ占領以前から日本人も来航し、交易の拠点あるいは南方への航海の中継地としていたとみられる。

カガヤンを侵す日本海

 カガヤン地方への日本船の来航とその拠点について、スペインの史料からみることができる。1582年(天正十年)6月16日、フィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサは、国王フェリペ2世に奉った書翰の中で、北方のカガヤン地方の警備にフワン・パブロス・デ・カリヨン率いる一艦隊を派遣したことを報じている。

 書翰には、1580年と81年に日本から海賊船がフィリピン諸島に来寇して土人に危害を加えており、この年も10隻が渡航準備をしているとの情報を得たため、来航地点(カガヤン地方)に6隻からなる艦隊を派遣したことが記されている。この頃には、日本船がほとんど連年南下してカガヤン地方に侵寇していた。

カガヤン川河口の城塞

 さらに7月1日付で国王に報じられたペニャロサの戦況続報によれば、カリヨンらの艦隊はカガヤン付近で日本人の船1隻と中国人の船1隻の計2隻と戦ってこれを撃破。目的の一つであった植民地建設のためにカガヤン河に入ったところで、河口部に日本船6隻と大勢が駐屯する城塞を発見している。

 カガヤン地方に来航していた日本人によって、カガヤン河の河口にはかなり以前から日本人集落が建設されていたのだろう。現在のアパリ(河口東岸)、あるいはその対岸のリナオ付近と推定されている。

海賊の目的

 日本人の目的は、フィリピンで産出されるにあった。日本人の首領はカガヤンからの撤退を迫るカリヨンに対して、代償として多量の金を要求したが拒絶されている。

 土着民から掠取した金についても、スペイン人がそれらを奪おうとする意図を知ると、カガヤン河口上流にスペイン人が建設した砦に迫った。しかし、かえって大損害を受けて結局撤退した。

海賊「タイフサ」

 モンテロ・イ・ビダルの『フィリピン島史』によれば、1582年にカガヤンに来寇した日本人の首領の名は、「タイフサ」といったとされる。

 日本海賊タイフサの撤退をもって、カガヤン地方への日本海賊の来寇は終息に向かう。しかし1589年においても、スペイン人は日本海賊を警戒してカガヤン地方やイロコ地方における城塞の構築、および艦隊での警備行動の必要性を検討している。

 一方で、1586年ごろから日本とマニラの間の貿易が安定化し始める。このためか、日本船がカガヤン地方に来航することはなくなっていく。

参考文献

  • 岩生成一 「呂宋日本町の盛衰」(『南洋日本町の研究』 岩波書店 1966)