戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

樹岩 見山 じゅがん けんさん

 戦国期の豊後府内に住んでいた渡来系中国人。絵画技術を持ち、大友氏のもとで貴重な顔料の調達に関わることもあった。天正末年頃、府内唐人町や隣の稲荷町の住人と伊勢参詣を行っている。

『大友興廃記』にみる狩野永徳と樹岩見山

 元亀二年(1571)、豊後国戦国大名・大友義鎮は、同国臼杵に丹生島城を建設し、京都から狩野永徳・宗秀の兄弟絵師を招いた。江戸初期の軍記物である『大友興廃記』には、狩野永徳と当時臼杵に住んでいた樹岩見山という中国明朝から渡来した人物との交流のエピソードが記されている。

 これによれば、樹岩見山は「大才広智」であり、絵画にも優れていた。見山はある人の質問に答えて、狩野永徳の「画道」を「上手」と評価し、一方で唐絵技法については、特に中国人の背を高く描いてしまう間違いを指摘したことがあった。

 その話を聞いた永徳は見山に中国絵画における人物画と風景画の神髄を尋ねる。これに対し、見山は、人物描写にこもる位・意・威の思想を説き、天地創生以来の自然・四季の原理をモチーフにした「丈山尺樹寸馬豆人の法式」による画法を、南宋の詩人・陳簡斎の詩を添えて説明した。

 見山の博識ぶりに感嘆した永徳は、以後の指南を依頼するとともに、見山から学び得た技法を使って制作途中であった丹生島城の座敷絵を修正したとされる。

中国産顔料の調達

 『大友興廃記』の見山のエピソードが、どの程度事実を反映しているかは判然としていない。しかし見山は実在の人物であり、大友義鎮(宗麟)のもとで絵画制作に関わっていた。

 天正二年(1574)閏十一月、大友義鎮は肥後国の要港・高瀬の宝成就寺に宛てて書状を送付。見山が長期間肥後国に滞在し、同年の春に豊後国に「上国」して、宝成就寺から預かった「金青五両」を大友氏に送り届けたことを伝えている。また大友義鎮は、「御懇志之儀祝着候」と礼を述べるとともに、手元にあった「狩野筆」の扇子3本を見山に託して、宝成就寺に贈っている。(「宝成就寺文書」)。

 宝成就寺が見山を通じて大友氏に渡した「金青」とは、濃い青色の顔料であり、古代・中世の仏像や絵画の制作に欠くたらされたアズライトなどの名称を持つ有色鉱石そのものか、それを精製したものであったと考えられている。

 見山が肥後国に長期滞在していたのは「金青」の調達の為であり、狩野永徳作の扇子を答礼の品として渡した宝成就寺に渡していることからも、見山が中国絵画に造詣が深い人物であったことがうかがえる。

府内唐人町の住民

 天正年間の豊後国から伊勢参詣した人物のリストが、御師・福嶋御塩大夫の参宮帳という形で現存している。当時の豊後国の中心都市である府内には、上市町、工座町、御所小路町など45の町に5000軒の町家が軒を連ねていたとされる。

 府内の大路(メインストリート)沿いに立地する町の一つに唐人町があり、参宮帳からは、この唐人町の町人も北隣の稲荷町や南隣の桜町の町人と連れだって伊勢参詣していたことが記されている。また唐人町の住人名には、「ふくまん」や「月山」など渡来系中国人らしき名前が確認できる。

 このうちの天正十七年(1589)三月十三日、「たう人まち(唐人町)」の「ゑんはい」「与三郎」「けんさん」「新四郎」が、「ゐなり(稲荷)町」の石井新次郎とともに参宮したことがみえる。

 「けんさん」はその音から「見山」、すなわち樹岩見山であると考えられている。見山は天正末年には府内唐人町に住み、他の住人たちとともに伊勢参詣に赴いていたことが分かる。

参考文献

森の中を進む皇大神宮伊勢神宮・内宮)参道
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