戦国期の豊後の豪商。通称は次郎左衛門。享禄・天文年間頃に、豊後府内でにおいて対外貿易で巨利を築いたといわれる。戦国末期の臼杵の豪商・仲屋宗越の父。
大徳寺瑞峰院との契約
弘治二年(1556)二月、仲屋顕通は京都の大徳寺瑞峰院の納所に宛てて、年貢算用状を提出している(「大徳寺黄梅院文書」)。この史料によれば、顕通は肥後国下豊田における瑞峰院領の年貢の輸送を請け負い、銭で納める契約を結んでいた。期間は天文二十二年(1553)から天文二十四年(1555)の3年間であった。
肥後国河川流通の掌握
この年貢算用状によれば、顕通は輸送を請け負った瑞峰院の年貢から、「川荷駄賃」を差し引いている。その駄賃率は高く、3年間の年貢米45石の運送に際して、22石5斗、つまり輸送物資の50パーセントもの収益を獲得している。
下豊田を含む肥後国豊田荘は、現在の熊本市城南町南部から宇城市豊野町にかけて広がった荘園。そこには九州山地に源流をもつ緑川が西流しており、その下流域の下豊田で御船川や加勢川と合流して有明海に注ぐ。下流域と河口の港・河尻との間では、河川流通が盛んであった。顕通は、豊後の隣国・肥後に進出して、緑川の流通路を掌握していたことがうかがえる。
計量と銭換算
下豊田の年貢は「肥後斗」で計量されていたが、顕通はこれを「豊後斗」で計量し直している。現地で使用される「肥後斗」と顕通の「豊後斗」では容量の規格が大きく異なっていた。顕通は「豊後斗」で再計量された年貢米を、今度は相場値*1によって銭に換算した。
しかし顕通が瑞峰院に納めた各年の金額は、上記の方法で算出された年貢米の銭換算値ではなかった。初年度の天文二十二年は、年貢米の銭換算値の2倍近い銭を、顕通は納めている。一方で、天文二十三年と天文二十四年は、銭換算値を下回っている。
これは、顕通と瑞峰院との契約が、3年トータルとして年貢米分の銭を納めることになっていたためと考えらえる。顕通は大きな財力を背景に、年貢米を運用投資に充てていたとみられる。
大友氏による規格の統一
16世紀後半、銀が急速に普及するなかで、九州各地の市町や港町には「計屋」と称する計量商人が生まれていた。豊後においても、大名・大友氏が、主要な交易地である府内、臼杵、佐賀関の三都市において、計屋が使用する天秤と分銅の規格を同一とする条々掟書を天正十六年(1588)に発布している。
江戸期編纂の『雉城雑誌』や『豊府紀聞』には、顕通の「遺秤」が、外国船との交易の際の銀計量の基準となっていたという記述がある。仲屋氏は、大友氏と近い政商としての側面もあった。このことから、大友氏の定めた天秤と分銅の規格基準が、上記の「遺秤」に相当したという可能性も指摘されている。
豊後府内の分銅製造
豊後府内の遺構からは、大友氏の館の門前「桜町」北端の角地で、礎石建物*2が見つかっている。
この調査区からは太鼓形および八角形の分銅十六点が出土し、そのうち十四点には三木紋*3が刻まれていた。建物のそばからは、分銅等を製作するための青銅製品鋳造炉跡も検出された。隣接地からは、製作途中の八角形分銅も見つかっている。
茶道具を蒐集する豪商
また建物周辺からは朝鮮産陶磁器、中国産陶磁器、黒楽茶碗などの輸入陶磁器や茶道具の優品が集中して出土している。このため、この角地の礎石建物の所有者は、大友氏と強い関係を持つ有力者と推定されている。上記の屋敷は、大友氏と関係の深い豪商・仲屋氏の可能性が高い。
『松屋名物集』によると、顕通とその子宗越は、名物の馿蹄茶入や南宋の玉潤の唐絵「山市青嵐図」、宋の皇帝徽宗による「鳩」の絵等を所持していたという。顕通は茶道具の蒐集にも熱心であったことがうかがえる。
江戸期に伝えられた姿
江戸期、顕通は対外貿易にも関わった豪商として伝えらえた。『雉城雑誌』や『豊府紀聞』によれば、「華夷ノ商船」(外国船)の豊後府内への入港は、大友氏の武威だけではなく顕通の力によるものであったという。外国船の来航に際して、京堺その他の地域から集まった多くの商人も、顕通が到着するまでは、値を定められなかったとされる。