戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鯛(佐賀関) たい

 豊後国佐賀関やその周辺で水揚げされた鯛。佐賀関沖の豊後水道は黒潮が瀬戸内海へと流れ込んでおり、鯛をはじめブリ、アジ、サバなどの漁獲資源の宝庫として知られる。中世、若林氏ら佐賀関の武士も漁労に関わっていた。

若林氏による鯛の献上

 中世後期、佐賀関周辺を領有した若林氏は、大友氏へ贈答品に鯛やいかなどの海産物を用いていることが、16世紀初頭頃の史料にみえる。若林源六は大友親治に塩鯛(塩漬けにした鯛)を贈って喜ばれており、若林越後守も親治に鯛を贈り、「近年見事にて候鯛」と感嘆されている(「若林文書」)。

若林氏の漁労活動

 若林氏は日常的には漁労活動を営んでいた。若林氏に伝わる文書からは、大友政親が若林源六に「しきあミのいと」(敷網の糸)を催促した事例や、天文末年に大友義鑑が漁網用の「網」を海部郡の上野氏や若林氏から調達しようとしていた事例が散見される。

 当該期の漁法の一つとして、船を利用した網漁が想定される。元亀三年(1572)前後のものと考えられる若林鎮興書状によれば、鎮興は一族の三郎に対して、田や屋敷を父親から相続することを認めるとともに「敷網船」の相続も了承している。若林氏にとっては田や屋敷と同じくらい「敷網船」が重要なものであったことがうかがえる。

参考文献

  • 鹿毛敏夫 「中世の船と港町・流通」 (『戦国大名の外交と都市・流通―豊後大友氏と東アジア世界―』 思文閣出版 2006)