日本の摺扇(倭扇・日本扇)を模して作られた扇。中国明朝において、日本の遣明使節と関係が深い浙江地方において生産された。16世紀中期、寧波で「仮倭扇」が作られていたことが記録にみえる。
倭扇の需要
日本の扇は宋元代にはすでに、中国の扇とは違って折り畳める点と、そこに描かれた様々な主題の繊細な絵が好評を博していた*1。それらは「摺扇」「摺畳扇」「折扇」などと呼ばれ、また産地から「日本扇」「倭扇」とも呼称された。
明の林房良の「日本扇歌」は、「倭夷の入貢品のなかでは、泥金扇が最も佳い。それは、金箔をもって底と作し、その上に彩色を施す」と記している。中国では、金箔の上に彩色を施した泥金扇が好まれていたことがうかがえる。
実際、明朝・永楽年間における日本からの輸入品リストには、「両面金扇、両面銀扇、一面金銀扇、抹金扇、貼金彩画扇、貼金銀扇、紙扇」という7種類の扇が挙げられている(高宇泰『敬止録』巻20)。このうち、6種類は金銀扇であった。
南宋期における摺扇生産
南宋期、中国では摺扇の国内生産が増加していった。13世紀初頭、南宋では竹骨の両面に絹を貼った摺畳扇が普及。富貴の家では象牙を扇骨とし、金銀で装飾した高級品も用いられていた。こうした意匠は高麗扇*2をモデルとし、さらに華美にしたものであった(趙彦衛『雲麓漫鈔』巻4)。
当時の臨安では、扇子巷という扇工場と扇売りが集まる一角があり、杭州の大通りでは「周家折揲扇鋪」などの、摺扇の専門店も出現していたという(呉自牧『夢梁録』巻13)。また宋代には、扇面に書画を描くことが流行。当初はおもに団扇が用いられたが、やがて摺扇にも用いられるようになった。
日明貿易と「杭扇」
日本の室町期、明朝では日本との朝貢貿易(日明貿易)を通じて日本扇を輸入した。遣明船が附搭物として舶載してきた日本扇は、明朝政府が必要量を買い上げた後、商人との交易が許され、民間市場に供給された。
明朝の永楽年間に中書舎人となった王紱の「倭扇謡」と題する詩は、日本扇をめぐる当時の状況が伝えている(『友石先生詩集』巻2)。
日本人がもたらした摺扇が市場に出回ると、京師(南京)の人々は日本の摺扇を争って買い求めた。杭州では職人が日本扇の類似品を作って売り出したが安価にもかかわらず、本物の日本扇と比べて売れ行きが悪い。
ところが日本の朝貢使節は、杭州を通過する際にこの「杭扇」(杭州産の扇)を安く買いあつめ、それを各地で高価に売却した。人々はそれが類似品とも知らず、「真倭人」(本物の日本人)から直接入手した扇として珍重したという。
遣明使からの技術移入
日本の遣明使節の窓口であった浙江方面では、摺扇の生産販売がさらに発達していたったとみられる。16世紀中期の朗瑛は「仮倭扇、亦寧波人造」と、当時の寧波でも日本扇の模造が行われていたことを伝えている。
また朗瑛によば、扇面に金で蒔絵を施したり(描金)、金箔を吹き付ける(灑金)技法は、寧波に来航した日本の遣明使節から聞き出したものだった。ただし金箔の吹き付けは、日本産ほど巧みに行うことはできなかったという(『七修類稿』巻45)。
寧波の扇屋
天文九年(1540)六月、遣明使節副使として寧波に滞在していた策彦周良は、市中の扇屋に、次のような多様な看板が掲げられていたことを記録している(『初渡集』嘉靖十九年六月十八日条)。
又製扇者之家裡無数貼牌。牌銘云、「自造時様各色奇巧扇」、「各色泥金扇面」或灑金、「発売諸般扇面」、「配換各色扇面」、「発売各色巧扇」。或書「遠播仁風」四字。或書「半輪明月随人云」之句。
「自造時様各色気巧扇」という看板が示すように、これらの扇屋では、流行に応じた多様な図案や形態の扇を生産・販売していた。その中には、附搭物として日本から輸入された扇や、その模造品も含まれていたとみられる。
また策彦周良によれば、明人の俗語で扇子を「黄其」とも称したという(『初渡集』嘉靖十八年五月十一日条)。この「黄其」とは「おうぎ」の音を漢字で音写したものとされる*3。