戦国日本の津々浦々 ライト版

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応昌 おうしょう

 元朝の時代、モンゴル高原南部のダリノール湖南西に築かれた城郭都市。現在の内モンゴル自治区赤峰市ヘシグテン旗に位置する。元朝の有力な姻族だったコンギラト部アルチ・ノヤン家によって造営された。

コンギラト部の城郭都市

 城郭都市応昌の造営は、1270年(文永七年)八月に行われた元朝の世祖クビライへの奏請を端緒とする。『元史』巻118特薛禅伝は、コンギラト部のオロチン・キュレゲン(チンギス・カンの第一夫人ボルテの甥ナチン・キュレゲンの子)*1が妻でクビライの娘であるナンギャジンとともに、ダリノール湖畔にあったコンギラト部の夏営地に城邑を造営することを奏請した結果、応昌府の設立が認められたと記している。この経緯から、応昌はコンギラト部の拠点となる城郭都市として築かれたと考えられている。

 応昌がいつ完成したかは不明だが、1277年(建治三年)にジルワダイ(オロチンの弟)が叛乱した際に応昌府が包囲され、城内にいたナンギャジンが危機に陥っている。この時は契丹族出身の将軍耶律元臣がジルワダイを撃退するとともに、その後、数年にわたり、この地に駐屯したという(『元史』巻149)。この頃には城郭都市が防衛上も機能していたことがうかがえる。

 一方でオロチンはジルワダイによって殺されてしまった。1280年(弘安三年)、オロチンの弟テムルが跡を継ぎ、同時にレビレート婚*2によりナンギャジンと結婚した。ジルワダイの叛乱が落ち着いたとみられる1285年(弘安八年)、応昌府は応昌路に昇格している。

 なおテムルが死去すると、マングダイ(テムルの弟)が跡を継ぎ、さらにナンギャジンとも結婚。1295年(永仁三年)、マングダイとナンギャジンの夫妻は冬営のための城郭の設置を成宗テムル(クビライの孫)に申請して認められている(『元史』巻18)。これが全寧府で、翌々年には全寧路に昇格している(『元史』巻21)。クビライの娘ナンギャジンと結びついたコンギラト部は、応昌路城と全寧路城の2つの城郭都市を築いたことになる。

 14世紀に入ると、応昌路と全寧路は元朝支配下を離れていたが、1354年(文和三年)に路として再び元朝の行政機構に組み入れられた(『元史』巻43)。1368年(応安元年)、元朝の恵宗(順帝)トゴン・テムルは、江南を統一した明朝によって大都を追われ、さらに1369年(応安二年)に上都も明軍によって陥落したため、応昌府に入った。

 1370年(応安三年)四月、トゴン・テムルは応昌で崩御。五月、明軍の攻撃で応昌は陥落し、トゴン・テムルの子アユルシリダラモンゴル高原の旧都カラコルムへと逃れた(『元史』巻47)。その後、明朝は応昌衛を置いたが、まもなく廃れたという。

応昌路城址

 応昌路城址はダリノール湖の西南に位置する。南北約650m、東西約600mのやや南北方向に長い方形をなしている。

 東西の城壁の南端から約150m、つまり城壁南よりの位置に城門が設けられ、城壁外側に向かって甕城を築造している。南城壁にも東端約250mの位置に城門が開かれ、甕城が設けられている。北城壁には城門はない。

 城壁の保存状態は良好で、現在の高さは高いところで約3mに達する。城壁の高さは東城壁の方が西城壁よりも高い。西風が冬から春にかけて強く、西城壁の方がより浸食が進んだためと推定されている。

 城壁は版築によって築かれた。城壁崩壊箇所で観察される版築断面からは、一層の厚さ約5〜8cmであったことが分かっている*3。往時の城壁の高さは推定6m。また版築の城壁であることから、女墻(城壁の上に築いた凹凸のある小さな壁)は高さ1.6m、厚さは1.0mと推定されている。

 地表面で観察できる大規模な建物址は中央、西北隅にある。また中央建物址の西側および東北、東城壁沿いにも南北方向に基壇址と思しき段差が確認されている。中央建物が公主(クビライの娘ナンギャジンなど)やコンギラト部の娘婿が居住した「魯王宮」址と考えられており、王宮東北の建物は寺院址と想定されている。

 西側建物址からは石碑の一部が見つかっている。「應昌路新建儒學」とあることから、孔子廟、学校があったこともとがうかがえる。城外の城隍廟なども含め、応昌路城に役人などの漢人が多数居住していた可能性もあるとされる*4

関連交易品

参考文献

応昌路城趾はグーグルマップでも確認することができる

*1:チンギス・カンの岳父となったデイ・セチェン以降、コンギラト部のアルチ・ノヤン家はオゴデイ家とトルイ家に娘を嫁す一方で、オロチンをはじめモンゴルの王族の娘婿となるものも多く、最有力の姻族であった。

*2:寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習

*3:契丹国(遼朝)時代の遼上京址や慶州城址と同様であるという。

*4:あるいは元朝の首都となった大都や上都がもっていた機能を、姻族のコンギラト部の都においても備えようとしていた可能性もあるという。