戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マプングブウェ Mapungubwe

 東南アフリカのリンポポ川とシャシ川の合流点に位置する都市。マプングブウェの丘と麓一帯に形成された。インド洋交易で栄え、最盛期には3000から5000の人口があったと推定されている。

リンポポ川中流域とインド洋交易

 9世紀、リンポポ川とシャシ川の合流地点*1に近いシュロダ集落が海外貿易で繁栄した。基本的な生業はミレット(雑穀)と牛の複合農業だったが、ここでは象牙の輸出が行われ、ビーズや綿布が輸入された。東方のモザンビーク沿岸部に、シュロダなどとつながるインド洋交易の拠点があったとみられる。そのうちのチブエネでは、8、9世紀頃のペルシア製陶器やビーズなどが発見されている。

 11世紀、北方から来たショナ人集団が、シュロダから6キロメートルほど南西でバンバジャナロ集落を形成。象牙製品とビーズが大量に出土していることから、シュロダに替わってリンポポ川谷の海外交易を掌握したと考えられる。さらにバンバジャナロでは、腕輪などの象牙細工を作る工房の跡があり、様々な骨細工や綿布が製造されていた。これら加工品を消費する、富裕な社会階級の存在が想定されている。

 またこの頃までに、地域の輸出品として金が重要な位置を占めるようになった。10世紀中頃、イスラーム地理学者マスウーディーがソファラ(東南アフリカの沿岸一帯を指す*2)の金について記述している。

マプングブウェの繁栄

 金の輸出の管理は、当初はバンバジャナロが行っていたとみられるが、11世紀後半から、すぐ近くのマプングブウェに移ったという。マプングブウェは金貿易がもたらす富を背景に発展し、最盛期の12世紀後半から13世紀後半にかけて、マプングブウェの丘と麓一体に、広さ9ヘクタール、人口3000から5000の都市が築かれた。

 マプングブウェの丘は、頂上が平らな楔の形をしている。一番高い所は地上60メートルで、周囲は険しい崖になっているが、人と家畜が頂上にたどりつける道が一本ある。丘の上の平地には宮廷が配され、西側の麓にかけては、臣下かちの住居と寄り合いの広場があった。一般民の居住区は、反対の東北側に広がった。丘を使って、身分の差異を空間の高低で示していたともいわれる。

 丘の近くの有力者の家の周りや一部の通路には、石積みの壁が築かれた。後に北のジンバブエ高原で栄えた都市グレートジンバブエにも大規模な石の壁が築かれるが、その基本モチーフとなったと推定されている。

 頂上の一角には支配者の墓地があり、そこで死者は、金と銅の装飾品、青、緑、黄のガラスビーズとともに埋葬された。ここからの出土品で特に有名なのは、美しい金箔のサイ、杖、椀である。金の海外交易で栄えていたことが、この副葬品からうかがえる。

急速な没落

 14世紀までにマプングブウェは没落した。この時期、カラハリ東部やリンポポ川中流の谷では雨量が減り、乾燥が激しくなった。これにより凶作が起こったり、人々が別の地域に移動したことが想定されている。

 また、ジンバブエ高原の産金地帯と沿岸部をサビ川に沿ってつなぐ北方ルートもこの頃開発されたとみられる。このルートはリンポポ川ルートよりも、ずっと距離が短く、道中の困難が少なかった。これによりインド洋交易の舞台が、マプングブウェの勢力範囲外に移った可能性がある。マプングブウェの北方では、グレートジンバブエが新たな金貿易の中継地として台頭しつつあった。

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参考文献

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合流点から見たリンポポ川の眺め

*1:現在の南アフリカジンバブエボツワナ三国の境界近く。

*2:「ソファラ」はアラビア語で「最も低い」つまり南にある所という意味。