戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

楊井 虎女 やない とらめ

 毛利家臣・楊井武盛の息女。元亀三年(1572)に父から所帯を譲られている。夫は楊井春俊、子は楊井規春か。

父と祖父

 虎女の祖父・楊井飛騨守国久は薬師としても知られ、天文二十年(1551)八月、山口を脱出する大内義隆が老母の養生の為に派遣するほどであった(『異本大内義隆記」)。

 父武盛も同じく医術に通じていた。永禄三年(1560)に吉川元春を治療し、同五年(1562)に元春の病が再発した際にも小早川隆景が薬師として強く推薦している。

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所帯を譲られる

 元亀三年(1572)二月、虎女は父武盛から、所帯である長門国美禰郡秋吉別府の30石を譲られた。武盛はその後も城番を務めるなど活動していたが、天正十二年(1584)四月十七日に死去した。虎女は父の遺跡を継いだものと推定される。

 女性が跡を継ぐ場合として、天文九年(1540)に安富興宗(大内氏の有力家臣)が息女の夜叉に所帯を譲った例が挙げられる。この時興宗が夜叉に伝えた申し送り事項には、夜叉に子が出来たらその子が家督を相続することや、子が成人するまでは夜叉の夫が主家に対する公役の名代を務めること等がある。興宗はこの内容について、さらに主家の承諾も得ている。

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その後の楊井氏

 天正十六年(1588)六月、楊井新五左衛門尉春俊に長門国美禰郡秋吉別府の30石1斗の知行が毛利輝元から認められている。あるいはこの春俊が、虎女の夫なのかもしれない。春俊は慶安二年(1649)九月に90歳で死去しているので、この時は29歳とみられる。

 翌天正十七年(1589)十二月、楊井彌七が元服し、規春を名乗る*1。武盛と同じ仮名であることから、虎女と春俊の嫡子である可能性がある。

 しかし楊井規春は、慶長五年(1600)八月二十四日、毛利勢が伊勢国の津城を攻めて大手門を突破した際、鉄炮に撃たれ討死した。享年25歳であったという。

 なお、武盛死後の虎女については、明らかではない*2

参考文献

港町としての柳井の面影が残る柳井川と雁木。かつて楊井氏は代々この港町のある楊井庄に居住していたと伝えられる。しかし、虎女が所帯を譲られる頃には離れていたとみられる

*1:楊井規春は慶長五年(1600)八月に25歳で死去しているので、元服時は14歳とみられる。

*2:所帯の秋吉別府30石が虎女の子ではなく、夫らしき春俊に認められたことをふまえれば、天正十六年(1588)六月時点で既に死去していたのかもしれない。