戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

山田 二郎左衛門 やまだ じろうさえもん

 相模小田原の鋳物師。 小田原の新宿に居を構え、北条氏から棟梁にも任じられた有力者。天文三年(1534)に、初代の二郎左衛門が、河内狭山(大阪府大阪狭山市)より移ってきたと伝えられる。

鋳物師の棟梁

 永禄二年(1559)に作成された『役帳』(『北条氏所領役帳』)には、「鍛冶次郎左衛門 二貫五百文 奈古谷給田」とある。河内から下った当初は奈古谷=韮山で北条氏に仕え、その後、北条氏綱の小田原入城に従って新宿に移り住んだとみられる。

  永禄十二年(1569)七月、北条氏は虎朱印状を「新宿鋳物師二郎左衛門」に下し、「鋳物師商売」を北条氏分国中で自由に行う認可を与えている。これにより、二郎左衛門の活動範囲は本拠の小田原だけでなく、北条氏領国全域に及んだものと思われる。

  天正十四年(1586)七月、「小田原新宿山田二郎左衛門尉」は北条氏から虎朱印状をもって「鋳物師の棟梁」を命ぜられる。当時、羽柴秀吉との間で緊張が高まっており、北条氏は二郎左衛門を公式に棟梁に任じて鋳物師業者の編成を図ったものとみられる。

火砲の製造

  『相州文書』の中の山田家の「次郎右衛門所蔵」文書には、天正十四年(1586)二月、「大磯より小田原迄宿中」に対し、「中筒」製造のための「大磯の土」の運搬を命じた伝馬手形が残されている。「棟梁」任命以前から、二郎左衛門が北条氏の要請で火砲を製造していたことが窺える。

  天正十七年(1589)十二月、北条氏は職人頭の須藤惣左衛門尉に「廿挺」の「大筒」製造の緊急命令を出した。この20挺の内の2挺が「棟梁 山田二郎左衛門」の分担となった。その他、小田原の長谷川六郎左衛門ら、相模各地の鋳物師にも大筒製造の数量分担が決められている。

 この須藤氏への大筒製造を指示した文書もまた、「次郎右衛門所蔵」文書として山田家に残されている。二郎左衛門が棟梁として相模の鋳物師を統轄していたためとみられる。

参考文献

  • 小田原市史 原始・古代・中世』 1998