戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

楊井 武盛 やない たけもり

 大内家臣。幼名は万壽。仮名は彌七。官途名は右京亮、後に但馬守。楊井飛騨守国久の次男だが、楊井春盛の養子となってその跡を継いだ。主家滅亡後に仕えた毛利家中では、その医術の評価が高かった。

楊井春盛の跡を継ぐ

 天文七年(1538)九月、楊井万壽(後の武盛)が、養父・楊井但馬守春盛の所帯を相続する事が大内義隆に認められた。春盛には実子がいたらしいが、不義不孝があったため、楊井飛騨守国久の次男だった万壽が家督を継ぐことになったという(『閥閲録』巻106)。天文十三年(1544)十一月、義隆の加冠で元服。武盛を名乗った。実名の「武」は、義隆からの偏諱かもしれない。

 『閥閲録』巻106によると、楊井氏は先祖代々、周防楊井(柳井)に居住していたとされる。武盛の養父春盛の先代である国盛は、大内義興に従って上洛し、永正八年(1511)八月の船岡山合戦で感状を得ている。

 他にも柳井(楊井)姓の人物には、享禄四年(1531)四月に周防国熊毛郡等*1の知行を与えられた楊井長盛(『閥閲録』巻93)、天文二十四年(1555)に周防国玖珂郡鞍掛山城主・杉隆泰が、毛利氏への人質とした柳井弥二郎がいる(『森脇覚書』)。また天文十六年(1547)に大内氏が派遣した遣明使節の一員として中国明朝に渡った柳井郷直も知られる。

kuregure.hatenablog.com

大寧寺の変大内氏滅亡

 『大内義隆記合戦記』によれば、天文二十年(1551)八月、陶隆房らのクーデターを受けて山口を脱出する際、大内義隆は母・東向殿のもとに「薬師ノ揚升(楊井)」を遣わしている。

 また『異本大内義隆記』では「楊井飛騨守と云ける薬師」とする。この時の武盛の動向は不明だが、少なくとも実父・飛騨守国久は義隆の側におり、義隆母のもとに派遣されたことで、難を逃れた可能性がある。

 武盛は義隆の跡を継いだ大内義長に引き続き仕えたとみられ、大内氏奉行人である仁保隆慰と内藤興盛により、改めて春盛所帯の相続を安堵された。

 その後、防芸引分を経て大内氏が滅びると、武盛は毛利氏に仕えた。弘治三年(1557)八月、毛利隆元および毛利氏奉行人から、養父春盛の遺跡である長門国美禰郡秋吉別府の内の30石の地行が認められている。

吉川元春の治療

 上述のように楊井飛騨守は医術に通じていたが、武盛も実父の医術を受け継いでいた。永禄三年(1560)、石見国河本で吉川元春が病に臥せった際、「楊井」の治療で平癒したという(「毛利家文書」)。この「楊井」は武盛に比定される。この二年後の永禄五年(1562)に吉川元春の病は再発するが、元春の弟小早川隆景は、以前の実績をもとに「兎角楊井然る可く候」と武盛を強く推薦している。

 この時、元春は胃腸病*2を患っていたとみられる。元春の父毛利元就も、元春のいる安芸国日山城に、僧医の則阿と少林寺、隆景推薦の楊井(武盛)を急行させるよう指示を出している(「毛利家文書」)。

 ただ、元就は元春が厄年である事を気にしており、僧医による灸治療と病除けの祈祷に重点を置いていたともいわれる。一方で元春は、元就に鶴や川獺を所望していたらしく、元就の指示を受けた毛利隆元(元春の兄)が、元春に塩漬けの川獺を送っている(「毛利家文書」)。

kuregure.hatenablog.com

 さらに元就隆元父子は同年五月、たまたま京都から下向していた医師「宮内大輔」*3にも元春の診療を依頼(「毛利家文書」)。六月、宮内大輔の投薬により、元春は快方へと向かった(「毛利家文書」)。

息女虎女に所帯を譲る

 元亀三年(1572)二月、武盛は所帯である長門国美禰郡秋吉別府の30石を、息女の虎女に譲っている。一時的に危篤となっていたのかもしれない。

 とはいえ、武盛は以後も活動している。天正年間には備前国児島郡天木(天城)の城の在番を暫時の約束で務めるも、交代の延引で数日逗留することになり、毛利輝元がその労を謝している。

 天正十年(1582)十二月、毛利輝元から但馬守の受領名を与えられた。その二年後の天正十二年(1584)四月十七日、武盛は死去する*4。跡は虎女が継いだと思われる。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

石見国河本(現在の島根県川本町)の温湯城跡の遠景。永禄三年、吉川元春はこの城で病を得て武盛の治療を受けたとみられる

*1:この時、楊井修理進長盛が大内義隆から与えられた知行は、周防国熊毛郡美和庄内10石(曽我小四郎跡)、筑前国糟屋郡内5石(多賀谷修理進先知行)、豊前国宇佐郡辛嶋の安光名8町、光富名2町。

*2:毛利元就は、元春の病気について「しゃくしゆ(積聚)」と認識していた(「毛利家文書」)。当代の医学専門書『捷径弁治集』は積聚について、「脾胃虚無ニヨッテ気血衰ヘ、中焦ノ昇降・流通ノ気ヨハキ」としている。

*3:和宮内大輔晴完または半井宮内大輔明貞のどちらかと考えられている。

*4:天文十三年(1544)の元服を15歳とした場合、享年は55歳となる。