戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

アインターブ Ayntab

 アナトリア南部の都市。現在のトルコ共和国ガズィアンテプ県の県都ガズィアンテプ。その語源はアラビア語の「アイン・タイイブ(良き泉)」が転訛したものとされ、豊富な水と食料があった。マムルーク朝の最北端の都市であり、多くの言語、文化が混在した学問の町でもあった。

マムルーク朝成立以前

 アインターブについて記された最も古い地理書は、13世紀前半に地理学者ヤークート・ハマウィーが著した『諸国集成』であるとされ、アレッポとアンティオキアの間の小村にある堅固な要塞であると記述されている。

 またアイユーブ朝末期からマムルーク朝初期にかけて書記官を務めたイブン・シャッダードも、アインターブについて以下のように記している。

アインターブ、山間の堅固な要塞で、郊外と小村を持つ。サジュール川*1はその近郊から発し、果樹園や粉ひき小屋を有する。昔はドゥルークの一部であったが、ビザンツ帝国は351年(西暦961ー962)にドゥルークを占領した。

 アインターブが、ユーフラテス川の支流の流域に属し、その水利を利用して果樹や小麦の栽培が行われていた様子がうかがえる。また以前はイスラームの領域であったが、10世紀後半にビザンツ帝国領となったことが分かる。

 後に、十字軍の時代にエデッサ伯の支配を受け、その後再びビザンツ帝国領となった。1153年(仁平三年)にザンギ―朝のヌールッディーンが征服し、以後アイユーブ朝マムルーク朝に引き継がれた。

水利を活かした繁栄

 マムルーク朝成立以前は「小村」とされていたアインターブは、大きな発展をみせる。14世紀前半にシリア西部の都市ハマーを支配したアブー・アル=フィダーは、自著の地理書『諸国の秩序』の中で以下のように記している。

アインターブの町はたいへん美しい町(baladah)で、そこには堅固な岩盤に築かれた要塞がある。水と果樹園が多く、その近隣の拠点となっている。そこには立派な市場があり、商人や旅行者が集まる。アレッポから北に3日行程である。
アインターブのそばにはドゥルークという廃れた砦があり、サラディンやヌールッディーンによる征服の逸話がある。

 アインターブは「小村」ではなく「町(baladah)」と呼ばれ、立派な市場があり、商人や旅行者が集まる場所として描写されている。一方でドゥルークは廃れていた。アインターブの方がより水源に近く、豊かな水を用いて農業や生活に役立てることができた為ともいわれる。

歴史家アイニーの出生地

 マムルーク朝期の歴史家バドル・アッディーン・マフムード・アイニー(1361ー1451年)*2は、1361年(康安元年)にアインターブで生まれている。

 アイニーの祖父ムーサ―は、はじめ中央アナトリアアンカラに住んでいたが、後にシリア北部のアレッポに移住。さらにその後、「その町が良い町であり、恩恵と優しさがあり、空気が良く水がきれいであるため」にアインターブに移住したとある。

 ムーサ―とその子・アフマド(アイニーの父)は、アインターブで2代にわたりカーディー(法官)代理を務めた。ただし、アインターブのカーディー職は、アレッポのカーディーが任免権を握っていたらしい。

アイニーの時代のアインターブ

 アイニーは自著の歴史書真珠の首飾り』内の「地誌」で、アインターブについて以下のように記述している。

美しく大きな町で、堅固な岩盤に築かれた険しい城塞がある。水と果樹園と葡萄畑が豊富で、その地域の拠点となっている。立派な市場があり、旅行者たちの目的地となっている。

この我々の時代においては、この地には9つの金曜モスクと、およそ120軒のモスク、およそ20軒近い浴場がある。しかしこの地には離反者と圧制者の手が何度も及び、その大部分は荒廃し、繁栄は止まってしまった。

 前半はアル=フィダーの記述の写しだが、アインターブが多くの施設と人口を抱えた都市であったことがうかがえる。一方で、境界の都市であるため、アナトリアの遊牧国家やティムール朝の侵攻をしばしば受けており、町の繁栄が止まっていたことが分かる。『真珠の首飾り』の記述は、アイニーが知る最盛期のアインターブの姿といわれる。

 またアイニーはアインターブについて、次のようにも記している。

この地はアジャムとトルコから、知識人と学識者が集う場所であり、15にもおよぶ数多くの場所で、あらゆる学問の授業があった。そのため人々は「アインターブは小さなブハラである」と言った。

 「アジャム」は狭義にはペルシア語を話す人々を指し、「トルコ」はトルコ語を話す人々を意味する。当時のアインターブは、ペルシア語話者やトルコ語話者など非アラブ人の知識人が集う場所だったことが分かる*3

 なおブハラは中央アジアの都市であり、スンナ派学術、とくにハナフィー法学派の中心地であった。この記述から、その名が当時のマムルーク朝知識人たちの間にも知られていたことがうかがえる。

アヒー・マフムード・アインタービー

 14・15世紀のアナトリア地方には「アヒー」と呼ばれる宗教指導者がいた。アヒーは、ザーウィヤを建設して若者にスーフィー修行のための集会の場を提供したという。

 アイニーの時代、アインターブにもアヒー・マフムード・アインタービーという人物が存在した。年代記に収録された伝記によると、彼は公正で寛大な人物であり、毎晩100名を超す貧しい者たちと、食事をともにしていたとされる。

 アヒーはアインターブの町のそばに、自らの財産で美しいザーウィヤを建て、所有するブドウ畑、果樹園、農地から多くの「ワクフ」(慈善事業への寄進)を行った。毎週金曜の夜には、彼の道場で集会(イジュラース)が催され、そこではウラマーや学識者、貧者や公正な者たちが、神の名を唱え、クルアーンを読み、知識を探求し、伝承を語った。イスラーム的知識の伝達が行われる場であったとみられる。

 その後、様々な料理と肉の出る盛大な宴席が行われた。この宴席の際、アヒー・マフムードは、料理や肉を手ずからつかみ取り、満腹になった出席者に対しても無理やり料理を食べさせてまわったという。

オスマン帝国時代

 アイニー存命中の1420年(応永二十七年)、アインターブはついにカラコユンル朝(黒羊朝)に征服された。その後、ズルカドル侯国の支配下に入る。さらに1515年(永正十二年)、ズルカドル侯国がオスマン朝に併合されたことにより、アインターブはオスマン帝国の領土となった。

 オスマン帝国時代になると、様々な文書からアインターブの人口や住民構成が分かる。1536年(天文五年)のアインターブには1865世帯が暮らしていたが、1574年(天正二年)になると2988世帯になる。

 またオスマン帝国時代の住民構成は、ムスリム*4アルメニア人、クルド人からなる。さらに都市の周辺には、定住民の数に倍する遊牧民たちが暮らしていたという。遡ってマムルーク朝の時代も、このように様々なエスニック集団からなる社会が構成されていたと考えられる。

参考文献

  • 中野信孝 「境界上の都市アインターブー「良き泉」の町」(守川知子 編 『都市からひもとく西アジア 歴史・社会・文化』 勉誠社 2021)
  • 中野信孝 「マムルーク朝時代のアインターブーアイニー兄弟の「自己語り」を通して―」 (『都市文明の本質 古代西アジアにおける都市の発生と変容の学際研究 研究成果報告』第二号 2020)

アインターブの要塞跡 afa63630によるPixabayからの画像

*1:ユーフラテス川に流れ込む小さな川の名前。

*2:アイニーは、1361年にアインターブで生まれ、その後アナトリア南東部、シリア北部の各都市で研鑽を積んだが、長じてマムルーク朝の首都カイロに上り、その地でハナフィー派大法官等の要職を長く務めた。なお「アイニー」という名は「アインタービー(アインターブ出身)」を縮めた呼び方。

*3:オスマン帝国時代のアインターブ法廷では、トルコ語が主要言語として用いられていたという。対してアレッポの法廷では、アラビア語が用いられていた。

*4:ムスリムとされた人々がいかなる民族(言語)集団であったのかは、分からない。