戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大砲(イギリス) たいほう

 イギリスの大砲製造は15世紀末頃から始まり、国内の豊かな鉄鉱石資源を活かして鋳鉄砲の開発が進められた。その結果、16世紀半ば以降、ヨーロッパ各国に輸出するまでに大砲産業は成長する。17世紀初頭には、徳川家康もイギリス製大砲を買い付けている。

大砲の登場

 14世紀前半、ヨーロッパ人の戦争に大砲が登場しはじめる。1326年(嘉暦元年)2月11日付のフィレンツェの公式文書に「ピラス、すなわち鉄の弾と金属の砲」を獲得したことことが述べられており、既に鉄製の砲弾が用いられていたことが分かる。

 同じ頃、イギリスにも大砲は普及していた。1327年(嘉暦二年)にイングランドで作られた彩色写本「ミリミート写本」には、初期の大砲と推定されるものの絵が描かれている。

 14世紀、ブルゴーニュ公フィリップ3世からスコットランド王ジェームズ2世に射石砲「モンス・メグ」が提供された。エノー伯領の首都モンスで試験されたこの大砲は、重量1万4560ポンド、口径20インチという超巨大なものであった。現在もエディンバラ城に展示されている。

 これら射石砲は、殺傷力はほとんどなかったが、砦や市壁を叩き壊すには効果的であったという。

初期の大砲産業

 イギリスの大砲産業は、大陸に比べて大きく後れていた。豊かな森林地帯の近傍に鉄鉱石の十分な供給源をもっていたため鉄の加工技術はあったが、当時の大砲製造にとって重要だった銅合金の加工技術は発展しなかったとされる。

 そんな15世紀末、イングランド王ヘンリー7世のもとで鉄製大砲の生産が進展をみる。記録によれば、イギリスの製鉄産業の主要地の一つアッシュダウン・フォレスト(サセックス)で働いた鋳造師の多くは、フランス出身の砲術師であった。当時、大陸から専門技術者を招いていたことがうかがえる。

 1490年(延徳二年)から1510年(永正七年)までの間に、イングランドでは砲弾の鋳造と並行して鉄製の大砲の鋳造が試みられた。また1509年(永正六年)から1513年(永正十年)には鋳鉄製の大砲が製造されたことが分かっている。砲身が短く、口径の大きな臼砲タイプであったという。

 しかしサセックスの大砲は、十分な性能ではなかったらしい。1509年(永正六年)にイングランド王に即位したヘンリー8世は、国外の青銅製大砲を求め、低地地方(ネーデルラント)の大砲鋳造所に大量の注文を行なっている。王はマリネスの大親方ハンス・ポッペンルイターから、20年弱の間に少なくとも140門のあらゆる口径の砲を受け取った*1

鋳鉄砲の発展

 1543年(天文十二年)、フランスとの戦争が差し迫り、軍備増強が求められる中、イングランドで新たな鋳鉄砲が開発、生産された。この砲は16世紀初頭のタイプとは違い、砲身は長くて重く、口径がより小さかったという。

 新しい大砲の性能は優良であり、1545年(天文十四年)には120門を下らない鉄製の大砲の鋳造が命じられた。さらに攻城用の巨砲を造るため、アッシュダウン・フォレストの西、フォレスト・オブ・ワースに二重炉が建設されることになった。

 1573年(天正元年)にはサセックスに8基、ケントに1基の炉があり、年間500~600トンの鉄が大砲や砲弾に鋳造された。1600年(慶長五年)頃には、年間生産量は800~1000トンに増加していた。

鋳鉄砲のメリット

 鋳鉄砲は青銅砲と比較した場合、多くの欠点があった。一つは錆びてしまうという特性。またイギリスの鋳造師の技術が向上していたにもかかわらず、鋳鉄砲は依然として青銅砲より脆かった。品質検査に合格しないことも多く、戦闘中の事故も鋳造青銅砲に比べて多かったという。

 そのうえ、金属強度の低さのゆえに、鉄製の砲は青銅砲に比べて著しく肉厚にしなければならなかった。結果として、鋳鉄砲は同格の青銅砲よりずっと重くなった*2

 一方で、鋳鉄砲は青銅砲に比べて、とても安価だった。青銅砲の価格は、平均すると普通は鋳鉄砲の3ないし4倍だったともいわれる。1636年(寛永十三年)頃のイギリスでは、33トン12ハンドレッドウェイト分のカルヴァリン砲および小カルヴァリン砲を、青銅で鋳造すると5355ポンド2シリングかかっているが、鉄なら1176ポンドしかからないだろうと見積もられている。

大砲の輸出

 イギリスの鋳鉄砲は、青銅砲には性能で劣るものの、価格の利点がこれを補って余りある製品だった。このためヨーロッパ中で大評判となり、大砲の輸出が大きく伸びた。

 1567年(永禄十年)、イングランド王エリザベス1世(ヘンリー8世の子)は、製鉄職人の親方ラルフ・ホッジに「鋳鉄砲を砲弾つきで」輸出する独占権を授与。しかし早くも1573年(天正元年)には、ホッジは自分の特権が絶えず侵害されており、他の大砲鋳造師たちが、スウェーデンデンマーク、フランス、スペイン、オランダ、それにフランドルにさえ輸出していると不満を漏らしている。

 ホッジによれば、イギリスでは年間400トン以上の大砲が鋳造された。その過半は「王国内で売られてもいなければ、買われてもおらず、したがって国内に留まることもなかった」という。

 また1596年(慶長元年)から1603年(慶長八年)までの間に、約2270トンの鋳鉄砲が免許を受けてイギリスから輸出されたとする計算がある。この内、約58トンはイギリス商人によるものであり、2212トンは外国人による。年平均は約325トンになる。

王国による規制

 ただ、敵となる可能性のある外国に大砲を輸出する事については、国内から批判があった。1574年(天正二年)、エリザベス1世は布令を出して、イギリスで鋳造されるべき大砲の数を「王国の使用に付されるもののみに」制限した。

 この布令以来、イギリス国内では大砲を売りたい大砲鋳造師と、輸出を禁じる立場の政治家たちとの論争が続いた。そんな中、大砲輸出の免許が得られたのは、とくに友好的なプロテスタント諸国向けの場合だった。

 1619年(元和五年)に、イギリス最大級の大砲鋳造所を所有していたトマス・ブラウンは、彼の生産する半数は免許を受けてオランダに輸出されていることを認めている。それは、「オランダ人が彼と売買契約して、イギリス人が買わないものはすべて引き受けることになっていたから」であった。

 不法な輸出も横行していた。1583年(天正十一年)、「イギリスで新たに鋳造された」23門(総量13.5トン相当)が、それに必要な弾薬1.5トンとともにスペインに納入されている。

 1588年(天正十六年)には、2人のスペイン人がイギリス人リチャード・トムソンに対し、ハンブルクロッテルダム、カレーのいずれかで大量の鋳鉄砲を納品するよう話を持ちかけたこともあったという。代金はクラウン金貨2万枚であった。

日本への輸出

 イギリスの大砲は、日本にも輸出された。慶長十九年(1614)十二月五日付でリチャード・コックスが平戸から東インド商会に送った書簡によると、カルバリン砲4門、セーカー砲1門が1400両で、他にも火薬10樽、鉛1万1000斤が徳川家康によって買い上げられた。

 なおイギリス東インド会社は、これより前の同年6月にも、鉛と大砲(ordnance)そして火薬を駿河へ運んでいる。

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参考文献

  • C.M.チポラ(大谷隆昶 訳) 『大砲と帆船 ヨーロッパの世界制覇と技術革新』 平凡社 1996
  • 高橋裕史『武器・十字架と戦国日本 イエズス会宣教師と「対日武力征服計画」の真相』 洋泉社 2012
  • 宇田川武久 『真説 鉄砲伝来』 平凡社 2006

ドーバーの大砲 H. HachによるPixabayからの画像

*1:しかし1523年(大永三年)には、イングランドの資金は尽きかけており、ポッペンルイターへの支払いが滞る事態となっていった。

*2:たとえば1620年代および1630年代にスウェーデン製の6ポンド砲を青銅で鋳造した場合、平均重量は500Kg程度であり、鉄で鋳造した場合は800ないし1000Kgであった。