幕府奉公衆・大内氏の一族。仮名は四郎。足利義尚の近江親征に従軍した。
足利義尚の近江親征
長享元年(1487)九月、将軍・足利義尚が近江守護・六角高頼討伐のため、自ら軍を率いて出陣した。公式には、高頼が応仁の乱に乗じて近江の寺社本所領や奉公衆の所領を占拠し、幕府の返還命令にも従わないため、とされた。
この時、義尚に従って近江に出陣した奉公衆五番衆の中に「加賀大内修理亮多々良」や「加州大内左京亮、大内助四郎盛弘・同四郎弘成」、「大内孫左衛門尉」らがみえる(「常徳院殿御動座当時在陣衆着到」)。「加賀」「加州」の注記があることから、彼らは、加賀に所領をもっていたことがうかがえる。
冷泉をめぐる裁判
義尚親征の5年前、文明十五年(1483)の室町幕府裁判記録に京中冷泉町角の土地争いの被告として「大内四郎」の名が見える(「政所賦銘引付」)。上記の大内四郎弘成と同一人物とみられる。
この案件は嵯峨景龍庵祐需という人物が、「冷泉町角の北端を証拠書類を持って現に知行しているのに、大内四郎が2丈6尺(約8メートル)違乱してきた」と訴えたもの。大内弘成は京中冷泉に土地を持ち、そこからはみだして隣の祐需の敷地を占拠していたとみられる。