戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

村上 尚吉 むらかみ なおよし

 因島村上氏の当主。官途名は新蔵人、後に加賀守。先代当主・吉直の子。吉充、亮康の父。

鞆浦の獲得

 天文十年(1541)正月、大内氏と敵対した友田興藤の要請により、能島、来島、因島の村上三氏の警固衆が厳島を占領した(『房顕覚書』)。これに対し、同年六月から大内方警固衆が因島など村上諸家の拠点を攻撃している(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。少なくとも天文十年時点では、因島村上氏大内氏と敵対関係にあった。

  天文十三年(1544)七月、大内義隆は「村上新蔵人」(尚吉か)に対し、下文でもって備後国鞆浦の内、18貫分の領地を宛がっている(「因島村上文書」)。

 この背景には、尼子方についた備後の神辺城主・山名理興討伐のため、海上輸送・海上警固について因島村上氏の合力を得る狙いがあったといわれる。

小早川徳寿への音信

 年未詳正月に、小早川徳寿(小早川隆景の幼名)が尚吉から贈られた刀一腰について礼を述べている。小早川徳寿が跡を継いだ竹原小早川氏は、大内方の国人であることから、尚吉が大内氏の陣営に加わっていたことが分かる。

大内家臣との交流

 村上加賀守は、大内家臣・陶隆満との交流があった。年未詳十二月、加賀守が上洛していた折、陶隆満も京都に滞在していたが、時間が取れずに会うことができなかったらしい。隆満は加賀守の一族らしい村上弥次郎に、贈られた刀のお礼を述べるとともに、加賀守への伝言を依頼している(「因島村上文書」)。

遣明船への関わり

 天文十六年(1547)、大内氏は結果的に最後となる遣明船派遣の準備を進めていた。近世の軍記物「南海通記」には、この時定められたという「渡唐船法度」が載せられている。この法度の奥の署名の一つに「加賀守源朝臣」がみえる。尚吉の官途名が「加賀守」であることから、この「加賀守源朝臣」が尚吉とする見方もある。

 因島村上氏の領内には因島田島、鞆など水運拠点があった。因島村上氏が海外貿易に携わっていた可能性は少なくないと思われる。

参考文献

  • 金谷匡人・『歴史文化ライブラリー56 海賊たちの中世』・吉川弘文館・1998
  • 因島村上文書」(『広島県史 古代中世資料編Ⅳ』)

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鞆城跡から眺めた鞆港