大内高弘との連携
明応八年(1499)三月、大内高弘が村上備中守(吉直か)に対し、豊前国で近日中に合戦が起こることを伝えている。すなわち、豊後の大友親治の軍勢が、一両日中にも豊前の大内氏領に進出するとし、備中守に対して海上警固を求めている(「因島村上文書」)。
高弘は、かつて杉武明らと謀って大内氏当主・義興(高弘の兄)を廃そうと試みていたが、逆に武明が誅殺され、大友氏を頼って豊後へと逃れていた。
上記の内容は、備中守が派遣したとみられる「金蓮寺」(因島村上氏の菩提寺・金蓮寺の僧を指すか)が豊後・佐賀関に着津した際に託けられたもので、書状に「先状如令申候」とあり、因島村上氏と大内高弘の間で既に書状のやり取りがあったことがうかがえる。
大内義興への警固船協力
明応八年段階では、大内義興の敵対勢力と連動していた吉直であるが、後に関係が改善したらしい。年未詳三月、大内義興は村上備中守に対し、警固船出動を「調法」したことについて、感謝を伝える書状を送っている(「因島村上文書」)。
しかし、吉直の代であるかは不明ながら、天文十年(1541)六月から七月にかけて大内氏の警固衆が因島や能島、甘崎などを攻撃している(「岩瀬文庫所蔵文書白井文書」)。因島村上氏が再び大内氏と敵対していたことが分かる。