生口氏の当主。仮名は孫三郎。官途名は刑部丞。毛利氏、小早川氏の警固衆の将として、大友氏や織田氏との戦いで活躍した。また生口島において寺社の造営に関わったと伝えられている。
海賊衆・村上氏とのつながり
江戸初期成立の『陰徳太平記』によれば、天文二十四年(1555)の厳島合戦に際し、能島武慶(村上武吉)は毛利元就からの加勢要請を詮議。その場にいた武将として久留島通康(村上通康)や因島義充(村上吉充)、村上吉郷、村上吉継らとともに「生口孫三郎景守」の名がみえる。
近世の軍記物の記述であり、事実の程度は不明であるが、景守が海賊衆・村上諸氏にもつながる有力者であったと可能性は推定できる。
毛利方警固衆の将
永禄四年(1561)十一月、毛利、大友の両警固衆が、豊前国蓑島周辺で衝突した。この蓑島合戦を描いた「豊前今井元長船戦図」の毛利方の注記に、「生口孫三郎景守」の名がみえる。
景守以外の毛利方武将としては、村上武吉や村上吉充、村上武満、村上吉郷、村上吉継、乃美宗勝、末永景盛、木谷景忠、包久景勝、財満就久らがみえる。村上三家や小早川警固衆の中核諸将とともに、生口景守が毛利方警固衆の一翼を構成して活動していたことがうかがえる。
景守は天正四年(1576)七月、毛利方水軍を織田方が迎撃した木津川口合戦にも参戦。合戦後に提出された注進状に「生口刑部丞景守」の名をみることができる。
生口島での活動
天正四年(1576)六月、景守が大檀那となって中野荒木神社の随神像が造られたことが、同像の墨書銘に記されている。これ以外で生口島における景守の活動は、はっきりとはしない。
一方、伝承の中では、寺社の創建・再興などに関わる景守の活躍が伝えられており、後世の記憶に残る存在であったことが窺える。