16世紀後半、上関を拠点に活動した海賊衆。源三郎。刑部少輔。江戸期の能島村上氏の系図や上関天満宮(菅原神社)の常夜燈の銘文では、村上吉敏の子とされている。
上関の城将
天正二年(1574)十一月、「上関」の「武満」が、赤間関の問丸役にあった佐甲藤太郎に宛てて書状を発している。それは、以前に佐甲三郎左衛門尉(佐甲藤太郎の先代とみられる)が得ていた「当関役勘過」の特権について、藤太郎の求めに応じ、彼にも認めることを伝えたものだった。このことから、武満が天正二年以前から上関に住み、往来する船舶から「関役」を徴収していたことが分かる。
また毛利氏と織田氏との戦いが激化する天正七年(1579)以降とみられる年の三月、毛利氏奉行人から高井藤右衛門と粟屋弥八郎に対し、上関に「上船」(畿内に向かう船。織田氏に味方する商船とみられる)が入港した場合、これを抑留し報告するよう村上武満を説得せよとの指示が下されている*1。武満は上関にあって、毛利氏の海上警固網の一角を担う役割も期待されていたことがうかがえる。
警固衆としての活躍
永禄四年(1561)十一月、豊前国蓑島周辺の海戦で、毛利方警固衆が大友氏の警固衆を破る。この海戦に関する史料の一つ「豊前今井・元長船戦図」に毛利方警固衆の将の一人として「村上源三郎武満」の名がみえる。他には村上武吉や村上吉充、村上吉郷、村上吉継、乃美宗勝、末永景盛、木谷景忠、包久景勝、生口景守、財満就久ら三島村上氏および小早川水軍の中核を担う武将たちの名が挙げられている。
武満は天正四年(1576)七月に毛利方警固衆が織田方警固衆を破ったいわゆる木津川口合戦にも参加。合戦直後の七月十五日付で作成された注進状に、村上元吉や村上吉充、村上吉継らとともに「村上刑部少輔武満」の名を見つけることができる。
他にも天正五年(1577)には播磨の坂越、英賀方面で警固活動を実施。天正十一年(1583)八月、織田方に寝返った来島村上氏の伊予鹿島城への渡海を小早川隆景から命じられている。
武満の立場
武満は毛利氏、小早川氏と能島村上氏との間に入って仲介や交渉にあたることもあった。天正十一年(1583)、能島村上氏が毛利氏に人質を差し出すことが問題となっているが、武満は毛利家臣・有田景勝とともに、毛利方の小早川家臣・乃美宗勝と村上武吉、元吉父子の間に立って交渉を進めている。
また年未詳だが、乃美宗勝と伊予の道後で「相談」し、河野道直や能島村上氏の行動について覚書をかわしていることも確認される。これらのことから、比較的毛利氏や小早川氏に近い立場にあったことがうかがえる。