来島村上家臣。仮名は源三郎。近世に作成された「河野分限帳」(河野氏家臣団の一覧)に名が見える。
「河野分限帳」における武備
武備は「河野分限帳」において、侍大将で御船大将を兼帯する「村上備中守吉光」の旗下組衆に挙げられている。「吉光」は「備後国因島城主」ともされているので、因島村上吉充に比定される。
二神隼人佐への使者
しかし弘治三年(1557)八月、村上通康から二神隼人佐のもとに、武備が「用水」の件の状況説明に遣わされている事実がある(「片山二神文書」)。実際は来島村上氏に属する人物だったとみられる。