戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宮地 資弘 みやち すけひろ

 因島村上氏の家臣。大炊助。明光の子。15世紀中頃、金蓮寺などの因島の造営事業や水運などに関わった。実名の「資」は、因島村上氏当主・吉資偏諱とみられる。

宮地氏の因島移住

 近世編纂の資料によると、資弘の父・明光は、応永三十年(1432)に木頃氏(または木梨杉原氏)に攻め滅ぼされた鳴滝山城主・宮地弘躬の子とされる。落城後、因島村上氏を頼って因島に移住していたという。

社寺の造営事業

  文安六年(1449)八月、因島村上氏菩提寺である金蓮寺の薬師堂が建立された。この時の棟札に、「領主村上備中守源吉資」とともに、「大願主」として「沙弥明光子息 宮地大炊助大江資弘」の名がみえる。

 さらに宝徳二年(1450)四月、金蓮寺の屋根の葺き替え工事の際に使われた瓦の銘にも「大檀那宮地大炊助沙弥妙光」とある。資弘(もしくは父の明光)が中心となって、金蓮寺の造営事業が行われていることがうかがえる。

水運との関わり

 宮地氏は、因島中庄を拠点に水運に関わったとみられる。「備後太田庄年貢引付」には、嘉吉三年(1443)の正月と十一月に「いんのしま」の「おゝい」(宮地大炊助)の船が、尾道から高野山へ年貢輸送を行ったことが記されている。

 鳴滝山城を中心とする宮地氏の旧領は、尾道に隣接していた。また上述の瓦銘にも「瓦大工尾道住衛門五郎経次」とあって尾道の瓦大工の動員がうかがえる。宮地氏は瀬戸内海の要港・尾道と深い関わりをもって、造営や水運などの事業にあたっていたことが推定される。

参考文献

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金蓮寺に残る宮地氏ゆかりの五輪塔。中央が宮地明光、左右が資弘とその妻のものと伝わる。

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宮地氏の居館は中庄公民館付近にあったという。

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中庄公民館裏手の恩山寺にある碑。宮地明光、資弘らの五輪塔は元はこの地に安置されていたという。