戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

冷泉 興豊 れいぜい おきとよ

 大内家臣。仮名は五郎。官途名は民部少輔。隆豊の父。「興」は大内義興からの偏諱と考えられる。加賀に拠点を持つ幕府奉公衆・大内氏の出自と推定されている。

興豊の知行

 文亀二年(1502)八月、大内義興から周防国玖珂郡由宇郷内13石や豊前国宇佐郡千歳丸15石などを代所として預けられている(「萩藩閥閲録102-2)。また永正二年(1505)二月、周防国都濃郡河内郷15石の地を、「冷泉五郎興豊」との約定に任せて玉信僧都に進止することを義興に認められている(「萩藩閥閲録102-2)。この地も、元は興豊が知行していたことが分かる。

 その後、永正十六年(1519)九月に周防国内で熊毛郡新屋河内60石や同郡宇佐木保内30石、都濃郡末武村67石、同郡豊井郷内50石、同所15石の知行が義興から与えられている(「萩藩閥閲録」102-2)。

大内家臣としての活動

 興豊は大内氏奉行人としての活動もみられる。永正十七年(1520)十二月、神代武総とともに、飯田興秀に豊前国中寺社に関する奉書を発給(「大内氏実録土代」)。大永元年(1521)十二月、杉興重とともに杉興長への筑前国宇佐領の役免除に関する奉書の発給などが知られる(「到津文書」)。

 天文八年(1539)十二月にも、弘中武長とともに太宰府天満宮常修坊領の筑前国那珂郡対馬公廨八町について杉興連に文書を発している。

摂津国得位時枝荘の請負

 永正五年(1508)六月八日、大内義興足利義稙を奉じて上洛。七月一日、義稙は征夷大将軍宣下を受けた。この5日後の七月六日、「冷泉五郎」という人物が、京都の北野社に対し、北野社領摂津国得位時枝庄(現在の兵庫県神戸市灘区徳井町)の請負代官となることを申請してきた(『北野社家日記』)。「冷泉五郎」は、興豊に比定される。

 興豊は申請の根拠として、寛正五年(1464)十一月に足利義政が「大内四郎重弘」に対して摂津国得位時枝庄や三河国横山郷の知行を安堵した御判御教書を示したという。北野社は覚悟に及ばずといったんは拒否したものの、1年数ヶ月後に興豊は得位時枝庄の代官職に補任された*1

 なお康正二年(1456)に内裏造営のため諸国に費用を割り当てた際の記録に、「三川国之内段銭」「摂州之内段銭」負担者として「大内四郎殿」がみえる(「康正二年造内裏段銭并国役引付」)。上記の大内四郎重弘の父と推定される。重弘の文書を所持していたことから、興豊は重弘の子孫である可能性が高い。

幕府奉公衆大内氏

 大内重弘やその父は、在京して室町幕府に仕える奉公衆であったとみられる。『証如上人日記』によると天文十一年(1542)五月、「加州大内四郎」という人物が本願寺を訪れている。

 『日記』では彼について、「九州大内と両輪之様」「奉公衆」としている。加賀に拠点を持つ奉公衆大内氏が存在し、西国大名・大内氏の同族と認識されていたことが分かる。長享元年(1488)に足利義尚が近江に出陣した際にも「加賀大内修理亮多々良」や「加州大内左京亮、大内助四郎盛弘・同四郎弘成」らが参陣している(「常徳院殿御動座当時在陣衆着到」)。

 冷泉氏はその祖を明徳の乱で討死した大内弘正(大内義弘の弟)と称していた(「萩藩閥閲録」102-2)。また元和三年(1617)成立の『後太平記』では、明徳の乱の恩賞として弘正の子藤丸が加賀中典荘を得たことがみえる。これらのことから、冷泉氏が加賀に所領を持つ奉公衆大内氏の一族であったらしいことがうかがえる。

冷泉姓の由来

 冷泉氏は興豊の代で姓を「大内」から「冷泉」に改めたとされる。主な活動の場が大内氏領国に移ったことが、契機であったのかもしれない。「冷泉」の姓は母方の祖父が冷泉小納言であったことによるとされるが(「萩藩閥閲録」102-2)、史料上の裏付けは得られていない。

 一方、文明十五年(1483)の京中冷泉町角における敷地境界をめぐる裁判の被告として、「大内四郎」の姿がみえる(「政所賦銘引付」)。彼は上記の奉公衆・大内四郎弘成と同一人物とみられる。このため「冷泉」は、奉公衆大内氏が京中冷泉に土地をもっていたことに因むとする説もある。

参考文献

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由宇の代官所と町並み。興豊は大内義興から由宇郷13石を預けられた。

*1:『北野社家日記』永正七年(1510)正月十四日条に、永正六年十二月十三日付の興豊の請文の写しが載せられている。