戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

姫路 ひめじ

 播磨西部の拠点・姫路城の城下町。山陽道が通過し、但馬方面へも街道が通じる陸上交通の要衝。中世には、「符(府)中守護屋敷」(浦上則宗書状)が置かれていた。このことから府中(播磨国府)として、一定の都市性を保っていたと考えられる。

姫路城

 姫路城については、永禄四年(1561)頃の史料に「姫道御構」(「助大夫畠地売券」)の存在が確認できる。築城時期も、それほどさかのぼらないと推定されている。この姫路城は、城主黒田氏の主家・小寺氏の御着城の「端城」であった(「黒田家譜」)。

織田氏中国経略の拠点

  天正八年(1580)、織田氏の部将・羽柴秀吉は三木の別所氏を降す。『信長公記』には、「姫地に羽柴筑前守秀吉在城あるべしと相定め」とある。織田信長が、姫路を中国地方経略の拠点として位置づけていたことが分かる。

  天正八年三月、織田氏と敵対していた毛利氏は、領内の水軍衆に対して姫路から多数の商船が下向していきていることを伝え、その抑留を命じている。九州方面における硝石などの軍需物資調達を、妨害しようとする目的があったとみられる。姫路が秀吉の軍事拠点となっていたことがうかがえる。

羽柴秀吉による城下町整備

 このような中、天正八年から翌年にかけて、姫路城には三層の天守が築かれるなど、本格的な改修が開始された。並行して姫路城下町の整備も行われた。

  姫路城の築城開始と同じ天正八年の十二月、羽柴秀吉は城下の「龍野町」宛に制札を下している。第一条では「市日之事、如先規可罷立事」と従来の市日を踏襲することが明記され、第二条では市日において諸商人を選択しないこと、第三条で諸公事役の免除など、いわゆる楽市が規定されている。

 龍野町の位置は、船場川を挟んで城下町の西側。第一条の内容から、秀吉の制札以前から市場が存在していたことがうかがえる。

 城下の総社では、同年四月に社人に対する禁制が出されている。内容は総社内の竹木伐採と社人私宅の宿取の禁止、社人への諸公事の免除の三条。総社は、古代の播磨府中にさかのぼるといわれる。秀吉段階にはすでに一定の町場を形成し、城下町内に独自の空間を形成していた可能性が指摘されている。

 また城下町北端、但馬方面への街道沿いにある野里は、在地の有力豪族・芥川氏の本貫地であった。同氏は鋳物師惣官職でもあり、豪商としても活躍した。

 天正十五年十月二十八日付「木下家定折紙」には、野里の中の「川(河)間町」や「寺町」「材木町」などの町名がみえる。また破損により詳細は不明ながら、野里村へは「羽柴秀吉禁制」も出されていた。

周辺諸都市の吸収

 姫路城下町には、秀吉の播磨再編によって解体された近隣の町場の機能も吸収された。『紀伊風土記』所収の長宗我部元親宛の秀吉書状によれば、秀吉は姫路の近隣の港町・英賀を解体し、町人・百姓を姫路城下に移住させ、市場を立てさせている。英賀は毛利氏に味方したため、秀吉の攻撃を受け開城していた(『信長公記』)。

 また天正八年の姫路築城と同時期に、秀吉は播磨国内の城割を実行しており、姫路東方の御着城も対象となっている。御着城下の佐土にあった心光寺は、姫路城下に移転している。御着城下の都市機能を、姫路城下町が吸収したことが考えられる。

参考文献

  • 多田暢久「姫路城下町」(仁木宏・松尾信裕 編『信長の城下町』 高志書院 2009)