中世には独立した島嶼であった児島南岸の港町。地域の水運の拠点を担った。対岸の讃岐との海峡部に臨む瀬戸内海航路の要衝という地勢条件から、航行船舶から礼銭を徴収する「関」(海賊)の根拠地でもあった。
物資の輸送拠点
文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、兵庫北関へ日比船籍の船が計9回、入港していることが確認できる。その積荷は児島産の小嶋塩をはじめ、米や大麦、小鰯、そして紙であり、日比の船は児島を中心に周辺の物資を輸送していたものと思われる。
海賊の拠点
日比は応永二十七年(1420)に朝鮮使節の宋希璟一行も寄港しているように、瀬戸内海の航路の要地であった(『老松堂日本行録』)。
そのため、日比には沖を航行する船舶から「礼銭」を徴収し、あるいは襲撃する海賊たちの拠点としての性格もあった。天正三年(1575)三月、上洛途上の薩摩の島津家久の乗船の前に「ひゝの関」が現れ、「船頭の捌き」(おそらく支払う礼銭の交渉)によって事なきを得ている(『中書家久公卿上京日記』)。
これ以前の天文十九年(1550)九月にも、東福寺の僧・梅霖守龍が周防山口に海路で下向する途中、「備前比々島」の沖で賊船と問答の末に襲撃を受けた。この時の海賊は小勢であり、守龍の船は鉄炮を放って撃退している( 「梅林守龍周防下向日記」 )。守龍はこの日の内に塩飽に到着して投宿していることから、日比の海賊の勢力圏は日比周辺の十数キロの範囲だったことがうかがえる。