戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

横大道銅鋺 よこだいどう どうわん

 広島県竹原市の横大道8号墳から出土した、ほぼ完形の平底無台鋺。ただし底部付近が一部欠損している。7世紀中葉のものとみられ、日本列島産鉛が材料として用いられている。なお銅鋺は、仏教儀式で使われた道具。

日本列島で作られた銅鋺

 口径は遺存状態の良いところで15.9cm、器高は6.8cmで、重さは278.1gをはかる。全体に緑青が析出しており表面状態は良好ではないが、本来は金属光沢をもつ黄銅色であったとみられている。

 鉛同位体比分析は、7世紀中葉の日本列島産鉛の使用を示す。このことから横大道銅鋺は、日本列島産の原材料による製作が推定されている。また蛍光X線分析による金属成分分析では、銅77%、錫6.6%、鉛8.5%という結果が出ている。

 日本列島産の銅鋺は数が少なく、横大道銅鋺以外には荒神西古墳(岡山県)と新堀カンカンムロ横穴墳(千葉県)からの出土が知られる。これらは朝鮮半島産原材料をもちいた銅鋺に比べ、錫の含有量が概して少ない。

 また銅鋺に限らず日本列島産原材料と判断される資料には4~6%のヒ素の含有も判明している。長登鉱山(山口県美祢市)や東大寺の銅滓には高濃度のヒ素が含まれており、このことは7世紀にさかのぼる日本列島での原材料産出を示す鉛同位体比分析の結果と矛盾しない。

 横大道銅鋺は鋳造製品とみられるが、鋳造後に轆轤回転を利用して施文したとみられる凹線が存在する。器壁についても轆轤挽きによって薄く削りだしていた可能性が高いという。

横大道古墳群

 銅鋺が出土した竹原市横大道8号墳は、無袖式の横穴式石室をもつ直径9mの円墳。墳丘や天井の一部は失われ、石室内は盗掘を受けていたが、発掘調査によって銅鋺と須恵器長頸壺1点、土師器盃1点、鉄釘片18点などが出土した。玄室内だけでなく羨道*1側でもまとまった数の鉄釘が出土したことから、銅鋺と土器は追葬にともなう可能性が高いとされる。

 この横大道8号墳を含む横大道古墳群の最も西にある1号墳は6世紀後葉に築造されたと推定されている。1号墳・2号墳の立地は、竹原市の新庄地区の盆地を見下ろす位置であり、同地区には近世の山陽道が通っていた。ただし中世の山陽道三原市本郷から東広島市高屋に抜けるルートをとっており、古代山陽道については安芸東部のルートは明確になっていない。

 それでも6世紀の段階で、各地の豪族が供給機能を果たす形態で、情報伝達を目的とした陸上交通の整備が行われていたとみられている*2山陽道沿いでは、備中のこうもり塚古墳や備後の二子塚古墳が山陽道沿いの大型横穴式石室をもつ古墳としてもっとも典型的とされ、ともに6世紀後葉の築造年代が推測されている。

 駅家との関係がうかがえる場合もしばしばあり、備後の二子塚古墳が品治駅、迫山1号古墳が安那駅の近くにあり、安芸国では梅木平古墳が梨葉駅の近くにあると想定されている。これらのことから、6世紀後葉に築造された横大道1号墳は古代山陽道あるいはその前身となる陸上交通路を意識した立地であり、この地域に設置されていたと思しき都宇駅もその麓にあった可能性が指摘されている。

 8号墳の銅鋺は、上記のような陸上交通路を抑える古墳時代後期の有力者の副葬品だったことになる。銅鋺は仏教儀式で使われた道具で、仏教とともに日本に伝わったという。仏教は6世紀に朝鮮半島から日本に伝わり、7世紀には法隆寺が建立されるなど興隆した。8号墳に葬られた人物は、当時としてはまだ貴重だったはずの銅鋺を入手できる有力者だった可能性がある。

 なお、古墳の名称に用いられている「横大道(よこだいどう)」という地名は、葛子川以東の一帯をさすものだという。「大道」の語は古代官道を彷彿とさせる。一方で同地域の小字「寺」の付近は廃寺跡とされるため、「横大堂」が転じて「横大道」となった可能性もあるとされる。

参考文献

【横大道8号墳出土銅椀】
竹原市歴史民俗資料館で撮影

【横大道8号墳出土銅椀】
竹原市歴史民俗資料館で撮影

【横大道古墳群出土須恵器】
竹原市歴史民俗資料館にて撮影

【横大道古墳群1号墳】

*1:古墳の横穴式石室や横穴墓において、外部と玄室(遺体を安置する部屋)を結ぶ通路部分。

*2:崇峻天皇五年(592)、駅使を遣わして天皇の訃報を筑紫の将軍府に伝えたとする記事がある。