戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江良 愛童 えら あいどう

 毛利家臣。江良賢宣の子。愛童は幼名で実名は不明。父の討死後、幼くして跡を継いだ。天正年間にみえる毛利家臣・江良弾正忠と同一人物と考えられている。白井晴胤に嫁いだ姉妹がいる。

父の討死

 永禄十二年(1569)十一月頃、愛童の父江良弾正忠賢宣筑前立花表で討死した。十二月十一日、愛童のもとに毛利輝元の使者・上田寺賢阿が訪れ、太刀と銭千疋が遣わされている(「風土注進案20当島宰判」)。

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 賢宣討死後もその家臣が筑前立花城で戦っていたが、同年十二月二十八日、毛利方は豊後大友氏に城を明け渡して長門国に撤退した。翌永禄十三年(1570)二月、毛利元就は「江良愛童被官」の中山宗左衛門尉宣直について「立花要害籠城辛労之段祝着候」と述べている(「徳山町人所持之御判物控写」)。

江良氏の家臣団

 永禄十三年十月十一日、愛童は「立花御城馳籠馳走」した中山宣直の功績に対し浮米三俵を支給。まだ未成人のため、文書は家臣らの連署で出されている(「徳山町人所持之御判物控写」)。

 この時署名している家臣は、白井弥四郎長胤、岡右京進久勝、古初新兵衛尉宣泰、吉賀掃部允堅定、帆足小左衛門尉忠吉、堀江左衛門尉元英であり、中山宗左衛門尉宣直を含めて彼らが幼い当主を支えていたと思われる。

 この内、古初宣泰と中山宣直は愛童の父である江良賢宣からの偏諱を受けた人物と推定される。帆足忠吉は、豊後国玖珠郡帆足庄の帆足氏と関わりがあるのかもしれない*1

 また白井長胤は安芸白井氏の白井賢胤・晴胤父子の同族と考えられる。当時の白井氏は小早川隆景に属していた。系図では晴胤の妻は「江良弾正忠女」となっており、愛童の姉妹(おそらく姉)が嫁していた*2

羽柴・毛利の領界と江良弾正忠

 天正十一年(1583)十月、小早川隆景穂井田元清を使者として、羽柴秀吉との領界付近の城に在番していると思しき「江良弾正忠」と小田源左衛門尉、天野木工助に書状を送っている(「岩崎家文書」)。この弾正忠は江良賢宣の後継者とみられることから、成人した愛童である可能性が高い。

 隆景は三名に対し、境界の「榜示之儀」に関し、羽柴秀吉との交渉を担当していた安国寺恵瓊と林就長が羽柴家臣・蜂須賀正勝とともに戻ってくることを伝え、冷静かつ堅固な在番を求めている。

一所衆を率いる

 少し前の同年壬正月、安芸国草津に「賊船」が現れて放火する事件が起き、毛利輝元が児玉就方を向かわせている(「萩藩閥閲録」巻145)。

 輝元は周防国下松の支配を担当していた児玉四郎兵衛尉(元村)に対しても、「賊舟」が「下浦辺」に出没しているので、「在郷之者」や「江良一所」「大庭一所」の者とも連携して警戒するように命じている(「萩藩閥閲録」巻18)*3

 「江良一所」とあることから、江良氏が毛利氏から一所衆を預けられる寄親となっていることが分かる。毛利氏の寄親は譜代家臣で占められており、他家の旧臣で任された家は数えるほどしかないという。大内氏旧臣ではほかに、内藤、杉、仁保、冷泉、大庭などがある程度であり、江良氏が毛利氏の直臣として一定の地位を築いていたことがうかがえる。

 なお輝元が下松の児玉元村に「江良一所」との連携を命じたのは、江良氏の本拠地である鹿野(山口県周南市鹿野)が近かった為と思われる。毛利家臣・二宮就辰が輝元に宛てた書状には、「江弾(江良弾正忠)先給 一、賀野」がみえる(「毛利家文庫遠用物中世」)。

 鹿野の龍雲寺は江良弾正忠の屋敷であったとされ、蔵掛山砦の麓にあった五輪塔は「江良弾正」の墓と伝わっていた(「風土注進案4前山代宰判鹿野上村」)。

参考文献

  • 鹿野町誌編纂委員会 編 『鹿野町誌』 1991
  • 和田秀作「戦国時代の江良氏について〜毛利氏との関係を注進に〜」(『令和4年度山口県文書館オンライン歴史講座②』 2022)
  • 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版
  • 岡部忠夫 編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983 

天神山公園から眺めた鹿野

*1:苗字のみに基づく、ただの推量。

*2:晴胤と江良弾正忠女との間には、後に景胤、元胤が生まれた。天正十五年(1587)に晴胤が日向国高城で討死すると、景胤が跡を継いだ。景胤が文禄三年に朝鮮半島で討死したため、元胤が跡を継いだ。

*3:安芸・周防にやってきた「賊船」の正体は不明だが、当時毛利氏に攻撃されていた伊予の海賊衆・来島村上氏による反撃かもしれない。