中世山陽道の分岐点に位置した市町。現在の広島県福山市神辺町。特に大字川北や大字川南が町場の中心だったとみられる。
備後の要衝
江戸期の文献『備後古城記』によれば、建武年間には備後の守護所が神辺に置かれたという。室町期には備後守護山名氏が、黄葉山に神辺城を築いて拠点とした。
天文七年(1538)に、沼隈郡山手の国人領主山名理興の支配下に入る。天文十二年に理興が出雲尼子氏に味方したため、神辺城は大内氏の攻撃を受け、天文十八年に至りついに落城した。理興は出雲に敗走した。
理興は後に毛利氏に許されて神辺城に復帰した。理興の死後は、一族の杉原盛重が跡を継いだ。盛重の死後は杉原氏に内訌があり、神辺は毛利氏の直轄領となった。
神辺城には天正末年頃に毛利元康(元就の八男)が入った。毛利輝元は「神辺は郡山同前候、つねづね之大事候」と述べており、毛利氏の本拠である安芸吉田の郡山城とならぶ重要な拠点と認識していた。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、芸備に入部した福島正則も神辺には筆頭家老の福島正澄を配置している。
神辺城下の市場
天文十八年(1549)四月に毛利隆元が井上十郎左衛門に与えた感状に「神辺七日市表固屋口」とあり、神辺城下に「七日市」という市があったことが分かる。神辺には現在でも七日市、三日市、十日市などの地名が残されている。また「古市」という地名も残っており、その名称から七日市成立以前の市の跡地を示しているとみられる。
その他、杉原氏が屋葺次郎五郎に宛行った給地の坪付には「いちは(市場)の南」と注記のある土地がある。屋葺氏の本拠地は神辺のすぐ近くの平野にあり、神辺周辺にも市が存在していた。
神辺は内陸に位置するが、杉原氏の領地には浦や塩浜があり、さらに領外の周辺には鞆や笠岡などの要港があった。神辺はこれら周辺地域と結びついて地域の経済圏を形成していたと考えられている。