戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

柿崎 かきざき

 柿崎川とそこに合流する小河川の河口部に位置する港町。中世、関東と越後府内を結ぶ街道の宿場町として栄えた。また河川水運によって西方の潟湖水運につながり、荘園・佐味荘の倉敷地・外港でもあった。

鎌倉期の柿崎の町屋

 正中二年(1325)、 御家人・大見資家が、「佐味荘柿崎宿うわミせ」以下の所領を資宗に譲ったことが史料にみえる。鎌倉後期、柿崎には「宿」が形成されていた。そこに各地から商人が集まり、「うわミせ」(上店棚)が並んでいたたことが分かる。

 発掘調査でも、鎌倉期から室町初期にかけての建物や井戸の遺構が確認されている。柿崎には、町場在家が発達していたことが窺える。

遺跡からみる柿崎の流通

 また木崎山遺跡からは、「佐巳」と墨書された土器が出土している。柿崎が佐味荘の倉敷地として機能していたという推定もある。遺跡からは他にも、珠洲焼や古瀬戸、越前焼、宋・明代の磁器、大量の宋銭、明銭などが出土している。日本海を通じて様々な物資が、柿崎に運ばれていたとみられる。

戦国期の柿崎の往来

 永禄四年(1561)三月、柿崎の問屋に出された制札では、「関東・海道往復の輩」として「猿楽ならびに桂斗荷物の事」を挙げ、猿楽師や「桂斗」(遊女?)らが公儀の御用と称して伝馬・旅送を命じても、朱印状の無いものに対しては応じなくてよいことが示されている。

 戦国期においても柿崎は、関東への街道、および日本海航路の要衝として多くの様々な人々が往来していた。柿崎の問もまた、その中で物資輸送に携わっていたことがうかがえる。

参考文献

  • 「第3章 第三節 海の道・山の道・潟湖と川の道」 (『上越市史 通史編2 中世』) 2004