戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

対馬砥石 つしま といし

 対馬の浅芽湾で採れる砥石。漆磨きや金銀の磨きに使用された。江戸期には全国的に知られた砥石であり、中世でも日本各地の遺跡から出土している。

全国に知られた砥石

 江戸初期の正保二年(1645)に刊行された俳書『毛吹草』では、日本各地、9カ国・10種類の砥石が紹介されている。その一つに対馬の「青砥」が挙げられて「塗師・利屋、用之」としている。対馬砥石が全国的に知られていたことが分かる。

 寛政十一年(1799)刊行の「日本山海名産図会」にも対馬砥石についての記述がある。鏡磨きや塗物の節磨きに向いており、銀細工の鋳型も適当だとする。ただし「虫喰砥」であるため割れやすく、刀磨きには不向きだとする。「虫喰砥」の名称は、小さい穴が多い石であることに由来すると考えられる。

遺跡からみる流通

 対馬砥石は日本各地の中世遺跡からも出土している。十三湊青森県五所川原市)、江上館跡・下町坊城(新潟県胎内市)、鎌倉(神奈川県鎌倉市)、草戸千軒町(広島県福山市)でみつかっている。

 草戸千軒町遺跡では、生活遺物の中に約千点の砥石が含まれており、全体の13.6%を泥岩製砥石が占める。泥岩製砥石は漆の付着した軟質のものが多く、漆工に使われたと考えられている。

 これらの砥石は、表面に多くの穴やえぐれがあり、「虫喰砥」と称された対馬砥石と推定されている。時代は、鎌倉期であるという。

 白山信仰の中心地である平泉寺の境内遺跡(平泉寺遺跡、福井県勝山市)からは、15世紀から16世紀の遺構が確認されている。遺物の中には各地の砥石があり、浄教寺砥(福井県)、鳴滝砥(京都府)、伊予砥(愛媛県)のほか、対馬砥石が複数個出土している。

 平泉寺への移入ルートは不明だが、青森県新潟県でも出土していることから日本海を海路で運ばれて来たのかもしれない。中世の北陸でも対馬砥石は使用されていた。

 このほか、豊後大友氏の本拠・府内の遺跡からも対馬砥石が出土している。16世紀代のものであるという。鎌倉期から戦国期を通じて、日本各地に対馬砥石が流通していたことが分かる。

朝鮮に贈られた砥石

 『朝鮮王朝実録』によると、世宗八年(1426)三月、対馬の「左衛門太郎」が朝鮮に使者を派遣して礪石(砥石)330を進上。糙米(玄米)15石の回賜を受けた。

 「左衛門太郎」は14世紀末から15世紀前半頃の対馬の豪族・早田左衛門太郎を指す。本拠は対馬の土寄(現在の対馬市美津島町尾崎)。倭寇頭目であったが、後に朝鮮に帰順。対馬帰国後は朝鮮との通交で活躍した。左衛門太郎が進上した砥石は、対馬砥石の可能性が高い。

 対馬砥石の生産地は浅芽湾の貝鮒周辺*1であったとみられ、浅芽湾頭を、押さえる土寄を本拠とする早田氏は、砥石の生産・流通にも関わっていたのかもしれない。

参考文献

*1:江戸期の明和四年(1767)四月、浅芽湾に面する貝鮒(現在の対馬市豊玉町)、嵯峨、佐志賀の三村に対し、砥石五千斤の「旅出」(島外への販売)が認められている。