戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

貝塚 かいづか

 和泉国中央の沿岸部に位置する寺内町

貝塚寺内町遺跡

 貝塚寺内町遺跡の発掘調査により、16世紀代の遺物が集中する地区が確認されている。貝塚寺内の原初集落の可能性が高いこの地区からは、青磁や青花、白磁等の中国製、朝鮮半島製の輸入陶磁器をはじめ、備前焼などの国産陶器も出土しており、一定規模を持つ町場の存在が想定されるという。

 同地域からは、16世紀中頃から後半にかけての瓦片が多量に出土している。複数の調査地から同はんの瓦片が出土することから、16世紀代には瓦葺きの建物が複数存在したことが確実視されている。

海塚坊の建立

 貝塚寺内町の中核となった海塚坊(後の願泉寺)の建立もまた、16世紀中頃とみられる。天文十九年(1550)四月、本願寺第十代証如は、上旬に大和の吉野を出発して貝塚に立ち寄った後に紀伊に下向し、帰路にも貝塚に立ち寄っている(「証如上人紀州下向記写)。

 これを機に同年八月、証如から「麻生郷堀海塚」の坊舎に開基仏として阿弥陀如来の画像「方便法身尊像」一幅が下付された(「方便法身尊像 裏書」)。「麻生郷堀海塚」という表現から、寺院は海塚村と堀村との境界に近い荒撫地に建設されたと推定されている。

海塚坊建立以前

 江戸後期成立の「貝塚卜半家之記」によれば、海塚坊建立前の貝塚は「砂場松原」の地で、戦乱の際には近在の者たちが「老親妻子隠シ置クヘキ」場所であった。そのため「小家ヲ結置」き、津田村庄屋左衛門をはじめとする「近在ノ庄屋々敷ナト」があった。堺または大坂の問屋である「ザコヤ一トウ」(=雑喉屋一党)も漁網による漁を伝え、後に貝塚に来住したという。

貝塚の有力者

  天文二十三年(1554)九月、本願寺の行事で「いつみ(和泉)かい塚藤右衛門・同与力衆」が三菜二汁からなる非時菜汁の費用を負担している(「証如宗主御葬礼併諸年忌記」)。この藤右衛門が慶長十五年(1610)の史料にみえる雑喉屋藤右衛門と同一人物とされる。「貝塚卜半家之記」にみえる「ザコヤ一トウ」とも通じる。

 十六世紀中頃の貝塚には、有力者の「(雑喉屋)藤右衛門」や有力住民層「与力衆」らがおり、本願寺寺院の海塚坊の運営にも関与していたことがうかがえる。

織田氏との戦い

 永禄十三年(1570)、本願寺織田氏の戦いが始まる。貝塚は、「国中の一揆貝塚と云う所海手拘へ、舟を引付楯籠」(『信長公記』巻十)と記述されるように、紀伊雑賀衆をはじめ、和泉国一揆衆が集結する場となった。

 当時の貝塚海上交通の要衝でもあったことから、本願寺を支援する安芸毛利氏の警固衆も貝塚を大坂への中継港として利用した。天正四年(1576)七月、毛利方の村上元吉らは、淡路岩屋を出船後に貝塚紀伊雑賀衆と合流。本願寺への兵糧搬入のために堺、住吉の沖を経て木津川河口に向かっている(「村上元吉連署注進状」)。

貝塚本願寺

 天正十一年(1583)七月、本願寺紀伊の鷺森から貝塚に移転した。この「貝塚本願寺時代は二年余り続く。移転に伴って貝塚に移ってきた人数は、多数いたとみられる。この間、海塚坊の御堂のみならず、寺内町も整備、発展したと推定される。

 本願寺が天満中嶋御坊に移ると、卜半斎了珍が海塚坊の留守居役となった。以後、卜半氏が「領主」的な性格を持ち、江戸期を通じて貝塚寺内町を支配していくことになる。

参考文献