戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

向上寺 こうじょう じ

 備後国生口島瀬戸田の北、潮音山に建てられた臨済宗仏通寺派の寺院。応永十年(1403)、生口島地頭・生口氏を大檀那として建立された。以後、生口氏と港町・瀬戸田の隆盛にともなって発展した。

生口氏と瀬戸田商人の後援

 向上寺は、仏通寺にとって重要な末寺であった。向上寺の歴代住持には、仏通寺の住持経験者といった仏通寺に関係する重要人物が多くみられる。

  応永二十八年(1421)、瀬戸田の有力商人とみられる四郎右衛門入道、六郎右衛門、三郎右衛門の3名が、現在の潮音山にあたる土地を向上寺に寄進。これを生口公実が承認した。生口氏及び瀬戸田町衆と、向上寺との深い関係が窺える。

 永享四年(1432)には、生口氏ゆかりの商人とみられる信元と信昌が、造塔本願檀那となって三重塔*1が建立されている。文安元年(1444)、向上寺は本寺の仏通寺とともに、将軍・足利義政から将軍祈願所にも指定されている。

寺の経営と有力商人

  また文安四年(1447)に定められた「向上寺条々規式」では、向上寺での年貢米の売却や大豆、小豆などの購入などは、檀那の六郎左衛門方に依頼し、個人の考えで他人に請け負わせることを禁じている。六郎左衛門は『兵庫北関入船納帳』にも船頭としてその名がみえる瀬戸田の有力商人である。

 この六郎左衛門のような瀬戸田の商人が檀那として向上寺を支え、その経済力を生かして寺の経営にも関わっていたことがうかがえる。

参考文献

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向上寺三重塔。

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向上寺鐘楼。

*1:現存しており、国宝に指定されている。