戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

花屋 道薫 はなや どうくん

 瀬戸田の有力商人。向上寺の梵鐘の銘にその名がみえる。

向上寺への銅鐘寄進

  向上寺の銅鐘の銘には、生口島の領主である「檀越 隆平」に次いで、「施主 法名 本願 松月道玉 心渓道信 花屋道薫道春」とある。施主となった花屋道薫や松月道玉は瀬戸田の商人とみられ、また道薫と道春は夫婦であると考えられる。

 この銅鐘について、「仏通禅寺住持記」の天文二十三年(1554)の項には「乙卯(天文二十四年)、此年向上寺鐘町衆寄附也」とある。道薫ら有力商人を中心とする瀬戸田町衆が資金を供出して鐘を鋳造し、向上寺に寄進したものと思われる。

銅鐘を守る

  向上寺の梵鐘には、さらに慶長四年(1599)五月の追刻がある。毛利氏が鉄炮の材料不足を補うために、寺社の「鐘磬」を提出させようとし、向上寺の鐘も対象となった。大旦那・生口景長夫妻をはじめ、島中の者が僅かな物を持ち寄って鐘の存続につとめた。その結果、再び鐘は鐘楼に吊るされることになったという。

 この時の施主として「梅叟道薫」「松月道玉」が刻まれている。鐘の寄進の際の施主であった道薫と道玉は、40年以上の年月を経て、鐘の保存運動の中心となり、再び施主として鐘に名を刻まれたのである。

参考文献

  • 「向上寺鐘銘」 (『瀬戸田町史 資料編』) 1997

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向上寺の鐘は現在でも鐘楼に吊るされている。