戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

岩城屋 いわぎ や

 天文二十三年(1554)、小早川隆景生口島調略に中心的な役割を果たした商人。その名から生口島の東にある岩城島出身と考えられる。

生口島への調略

  「岩城屋」の名は、小早川隆景が天文二十三年(1554)正月廿七日付で家臣・八幡原元直に宛てた書状にみえる。この時隆景は、生口島の調略を進めていた。岩城屋はこれに尽力し、隆景は岩城屋に「望の儀」、つまり恩賞を与える意向であることを元直に伝えている。また岩城屋の一族とみられる孫七郎も、「退衆の儀」について功績があったことが記されている。

 隆景の生口島調略については、誰を対象にしたものかは不明だが、「退衆の儀」とあることから、何らかの勢力が生口島を退去したものと思われる。岩城屋や孫七郎はこの調略で大きな役割を担ったとみられるが、おそらくは日常的な商業活動により、生口島へ大きな影響力を持っていたと考えられる。

三原の「岩城屋」

  「岩城屋」については、伊勢御師・村山親安が天正九年(1581)に安芸国内の檀那を書き出した檀那帳に、三原在住の「岩城屋彦右衛門尉」がみえる。この項目の「岩城屋」が当時三原に在住していたかは分からない。しかし生口島調略のように毛利氏や小早川氏と結びついて、その特権商人として勢力を拡大したのかもしれない。

参考文献

  • 「第三章第六節 戦国の動乱と生口島」(『瀬戸田町史 通史編』 )2004