戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

枚方 ひらかた

 淀川の左岸、枚方丘陵の北端に位置する寺内町。大坂-京都間の街道上にあり、盤船街道の起点として奈良方面にも通じる陸上交通の要衝にあった。

枚方寺内町の成立

 枚方寺内町に近接する三矢は、興福寺の「三屋(矢)関」*1が知られる河川・陸上交通の要衝だった。そこに15世紀末頃から一向宗の布教が進み、永正十一年(1514)九月、本願寺実如の命により枚方に御坊が建立された。これを契機として、枚方寺内町が成立したといわれる。

  枚方御坊の史料上の初見は『天文日記』天文十五年(1546)六月二十二日条。本願寺管領細川晴元から淀川河岸の諸関の過書を取得したことを、冨田、出口、枚方の三御坊を通じて諸関に通達している。

寺内町の発展

 永禄二年(1559)十二月、枚方御坊に蓮如第二十七子の実従が入り、御坊を順興寺と改めた。以降、塀や堀の整備が行われており、寺内町の整備が進んだものと思われる。

 『私心記』永禄四年(1561)七月十九日条は、順興寺御堂の庭で行われた盆踊りについて「事外群集候」と記している。踊りの盛大さと、寺内町の発展をうかがうことができる。

屋号にみる枚方の町衆たち

  また『私心記』にみえる枚方の町衆の屋号には、日常物資を扱ったとみられる「油屋」や「紺屋」、「味噌屋」や金融関係とみられる「十一屋」、「日銭屋」があった。また「甲斐田屋」、「富田屋」、「淀屋」、「平野屋」など出身地とみられる地名を屋号とする者もいた。枚方が周辺地域の流通拠点となっていたことが窺える。

参考文献

*1:史料上の初見は永徳元年(1381)