戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大内 四郎 おおうち しろう

 加賀大内氏の一族。幼名は竹千代。加賀国江沼郡分校(現在の石川県加賀市分校町付近)の所領を、現地で支配していた。

加賀国江沼郡をめぐる対立

 『証如上人日記』(以下『日記』)によれば、天文五年(1536)十月七日、本願寺室町幕府の大館高信から、ある依頼を受ける。それは加賀国江沼郡の大内竹千代知行分の所領について、将軍足利義晴から知行を認められたので知行申付をしてほしいというものだった。

 当時、本願寺加賀国に強い影響力を持っていたためとみられる。本願寺が状況を確認したところ、大内竹千代は「大内一家」であり、現地で支配を行なっているということが判明。このため申付はできないと大館高信に回答した。翌月の閏十月七日に大館高信は大内竹千代が「上意御敵」、つまり将軍足利義晴に敵対していることを伝えて申付を再度要請しているが、結局本願寺は断っている。

 6年後の天文十一年(1542)五月十二日、「加州大内四郎」(元服した竹千代)が本願寺を訪れた。大館高信による知行申付依頼を、本願寺が拒否してくれたことに対する御礼が目的であったらしい。

 『日記』は大内四郎について「九州大内と両輪」「奉公衆之由」と記している。大内四郎が、中国と九州に勢力を誇る大内氏と関係があること、現在は在京せず将軍とも敵対しているが、元奉公衆の家柄であったことがうかがえる。

加賀大内氏

 大内四郎は、加賀国江沼郡分校の所領を支配していた。森田柿園が作成した加賀の地誌『加賀志徴』の「江沼郡」の項には、「柏野村の北にオウチ屋敷とて有之いへり、今按ずるに、いにしへ大内氏の第蹟なるべし」とある。続けて長享元年(1487)九月の「常徳院殿江州御動座在陣衆着到記」に「加賀大内修理亮」や「加州大内左京亮長卿・大内助四郎盛弘・同四郎弘成」らが見えることを挙げ、「当国に大内の氏人多し」としている。

 また明徳の乱で討死した大内弘正の子藤丸が、加賀国石川郡中興庄(現在の松任市東部)を賜ったことが『後太平記』に見えることを紹介。さらに江沼郡奥山方通(現在の加賀市山中温泉大内村付近)にある「大内村」は、昔大内氏が領したことがその名の由来だろうと推測している。加賀国の西部に大内氏一族の所領が点在していた痕跡があったことがうかがえる。

参考文献

  • 須田牧子 「加賀の大内氏について」(山口県地方史研究会・編 『山口県地方史研究 第99号』 2008)