戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

能美 右近助 のうみ うこんのすけ

 来島村上家臣。幼名は千壽丸。仮名は四郎。官途名は右近助。安芸国能美島(現在の江田島市能美島)の出身か。来島村上通康と、その子通総に仕えた。

村上通康による所領安堵

 永禄元年(1558)八月、能美千壽丸(後の右近助)は、来島村上通康から仮名「四郎」*1を与えられた。

 次いで永禄六年(1563)六月、通康より能美島の所領の安堵を受けた。安堵状に記された知行高は、土地と屋敷分の36貫160文と、豊後守という人物のかつての知行地のうち、9貫450文であった。

 同年七月、通康は能美民部卿丸に、能美島の内、三吉浦(現在の江田島市沖美町三吉)を除く72貫200目を安堵。永禄八年(1565)八月には、能美与三に5貫350文を安堵している。能美四郎(右近助)と民部卿丸、与三の関係性は、不明である。

 四郎(右近助)が所領安堵を受ける9年前の天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏に叛旗を翻した際、能美氏ら能美島の勢力は大内方についた。その後、毛利氏は大内氏を滅ぼし、能美島は毛利氏に味方した来島村上氏の領地となっていた。このため、生き残った能美氏は、来島村上氏に仕えることになったと推定される。

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村上牛松の登場

 永禄十一年(1568)十月、伊予河野氏と宇都宮氏、土佐一条氏との戦いが始まった。河野氏重臣でもある村上通康も出陣したが、病を得て伊予道後に引き返すも(「乃美文書」)、間も無く死去した。通康の跡は、子の牛松(後の通総)が継いだ。当時は六歳だったとみられる。

 永禄十一年十二月、能美四郎は村上牛松より「右近助」の官途名を与えらえた(「山野井文書」)。これが牛松の史料状の初見とされる。

伊予国下須戒の戦い

 先述の永禄十一年の戦いで、伊予宇都宮氏の本拠大津(地蔵ヶ嶽)・八幡山両城は、河野氏の援軍として渡海した毛利勢によって陥落。宇都宮氏の残党は、下須戒(現在の愛媛県大洲市長浜町。股川河口付近の左岸の地名)に追放された。

 元亀二年(1571)になって宇都宮氏が再起の動きをみせたらしい。同年七月、来島村上氏重臣村上吉継が下須戒を攻略した*2。能美右近助は、吉継のもとで手柄を挙げており、牛松から感状を送られている。

参考文献

  • 「山野井文書」(『広島県史』古代中世資料編4)
  • 山内譲 『海賊衆 来島村上氏とその時代』2014

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能美島の大原湾

*1:16世紀前半、能美仲次能美賢次が仮名「四郎」を名乗っている。あるいは、この仲次の系統の子孫として位置づけていたのかもしれない。

*2:同年八月、土佐の長宗我部元親が吉継宛に、下須戒での勝利を祝う書状を送っている。