戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

斎藤 高利 さいとう たかとし

 大内家臣。仮名は次郎。加賀守。大内氏の警固衆として厳島神主家と戦った。

厳島占領

 大永三年(1523)四月十一日、武田光和らに支援された友田興藤厳島神主を自称し、大内氏に叛旗を翻す。興藤は佐西郡桜尾城に入城し、己斐城、石道本城*1も攻略した。

 さらに六月、出雲国尼子経久安芸国に侵入し、平賀氏、毛利氏、吉川氏ら安芸国諸勢力を従えて大内氏の東西条領の主要拠点・鏡山城を陥落させた。これにより、安芸国における大内氏の勢力は大きく後退した。

 同年八月一日、弘中武長を指揮官とする大内方警固衆が、周防国大島郡遠崎(現在の山口県柳井市遠崎)を出津。斎藤高利は武長を補佐する一所衆10名の一人として従軍した(「閥閲録巻160 萩町人」)。なお武長の一所衆は、他に沓屋勝範、沓屋通種、小野山富縄、吉井蔵人が確認できる(「閥閲録巻137 沓屋勝八」『房顕覚書』)。

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 十八日、大内方警固衆は厳島に押し寄せ、友田方の守備兵を退却させて同島を占領した。

五日市強襲

 十一月一日、弘中武長率いる*2大内方警固衆は、厳島から出撃して桜尾城後方の友田方拠点・五日市を襲撃し、斎藤高利は放火を行った。

 しかし友田方の反撃に遭い、高利の中間1人が左足に矢傷を受けている。さらに船着場において野間刑部大輔能美弾正忠、野村民部丞、そのほか主だった者が20人余り討死して、大内方は退却した。

桜尾城の戦い

 翌大永四年(1524)五月十二日、大内氏佐西郡大野城において友田興藤・武田光和の連合軍を破る。この勝利に勢いを得た大内方では、大内義興・義隆父子が大軍を率いて安芸国に出陣。陶興房は大将として岩戸山に陣をおき、さらに弘中武長指揮下の大内水軍が海上を封鎖して桜尾城を完全に包囲した。

 斎藤高利も武長指揮下で桜尾城攻めに加わった。七月三日、高利自身が左足の「腨」(ふくらはぎ)に矢傷を負っている。七月下旬から大内方の攻撃が本格化し、七月二十四日には陶興房の部隊が「桜尾ノ二重」まで攻め込みながら、城の友田方に撃退された。大内方は攻城兵器「車ヤクラ」まで投入したが、城側の守備は堅固だった。高利は八月二十三日にも、同城で右肩に矢傷を負った。

 攻めあぐねた大内方は、吉見頼興を使者として城中に送り、十月十日に友田興藤との講和が成立した。高利とともに弘中武長の一所衆として出陣した沓屋勝範は、後に大永三年(1523)八月一日から大永四年(1524)九月十四日の帰国に至るまでの軍忠状を武長に提出している。武長指揮下の警固衆が帰国した九月十四日には、興藤との和議に目途がついていたと考えられる。

大内氏滅亡後

 大内氏が滅亡した後の弘治三年(1557)十月、高利は毛利隆元から長門国美祢郡で合計22石の知行を与えらえた。

参考文献

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厳島の多宝塔付近からの桜尾城方面を眺める。

*1:現在の広島市佐伯区五日市町石内にあった城塞。有井城に比定される。

*2:野坂房顕の「覚書」では、五日市で討死した野村民部丞を「弘中越後守ガ一人」としているので、武長も自身の郎党を率いて五日市攻撃を指揮していたと考えられる。