戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大内 直貞 おおうち なおさだ

 幕府奉公衆・大内氏の一族。官途名は修理亮、後に周防守。

周防守への任官

 延徳二年(1490)十月五日、「修理亮多々良直貞」を周防守に任じる宣旨案が作成されている(「宣秀卿教書案」)。この任官は室町幕府の任途奉行・摂津政親の申し入れにより橋本中納言(公夏)を担当しており、直貞が得た「周防守」は正式の武家官途であった。「多々良」とあることから、直貞は多々良姓の大内氏であったことが分かる。

 またこの宣旨案を書きとめた中御門宣秀は、大内直貞について「京ノ大内」と注を付している。これは西国の守護大名大内氏と対比し、在京して幕府に仕える奉公衆大内氏を指しての文言と推測される。

幕府奉公衆

 長享元年(1487)九月、将軍足利義尚が近江守護六角高頼討伐のため、自ら軍を率いて出陣した。この時、義尚に従って近江に出陣した奉公衆五番衆の中に「加賀大内修理亮多々良」がみえる(「常徳院殿御動座当時在陣衆着到」)。周防守の官途を得る前の直貞と考えられる。

 直貞以外の大内氏として「加州大内左京亮、大内助四郎盛弘・同四郎弘成」、「大内孫左衛門尉」らがみえる。「加賀」「加州」の注記があることから、直貞をはじめ奉公衆大内氏は加賀に所領をもっていたことがうかがえる。

 明応元年(1492)成立の奉公衆の名簿には、五番に「大内周防守・同左京亮・同助四郎」が記載されている(「東山殿時代大名外様附」)。大内周防守は、昇進後の直貞であると思われる。

鴨社との喧嘩

 公卿・近衛政家は明応八年(1499)二月二十九日、「武家奉公大内周防」と鴨社との間で喧嘩が有ったことを日記に記している(『後法興院記』)。さらに他の奉公衆も、彼に加勢するため鴨社に向けて出陣しようとしていたという。

 『鹿苑日記』明応八年三月二日条によると、奉公衆の中でも五番衆が加勢しようとしていたらしい。奉公衆五番と関わりが深いことから、政家のいう「大内周防」も直貞であると考えらえる。

参考文献

  • 須田牧子 「加賀の大内氏について」(山口県地方史研究会・編 『山口県地方史研究 第99号』 2008)