戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マンガゼヤ Mangazeya

 シベリア北西部、タズ湾に注ぐタズ川河畔の都市。1600年(慶長五年)にロシア・ツァーリ国の遠征隊によって建設されたことを始まりとする。毛皮資源獲得の拠点であり、北極海沿岸航路やオビ川を経由して多くの商人や狩猟者が来航した。

ロシア人のシベリア進出

 ロシア人は12世紀初めごろから、ウラル山脈の北部を超えて西シベリア方面へ進出を始めたと推測されている。第四ノヴゴロド年代記には、1364年(貞治三年)にノヴゴロド人たちが「オビ川にそうて海にいたるまで遠征した」という記載もある。

 「マンガゼヤ(Mangazeya)」は、さらに東方のオビ湾東岸一帯の地方を指す地名だった。16世紀初めの著作とされる『東国の未知の人々と種々の言語とに関する話』には、「東国に、ユグラの土地(オビ川流域)のかなたに、"Malgonzei"と呼ばれるサモイェードの人々が海の沿岸に住んでいる」とある。マンガゼヤという地名は、この"Malgonzei"に由来するという*1

北極海沿岸航路の往来

 遅くとも16世紀半ば以降になると、北部ロシア沿海地方の住民たちが、オビ湾方面へ航海するようになっていた。1556年(弘治二年)、イギリス人バロウは、ヴァイガチ島付近で猟をしていた北部ロシア沿海地方の住民に会い、彼らがオビ川か「ナラムザイ川(Naramzay)」かへ行こうとしていることを聞いた。この「ナラムザイ」は、マンガゼヤ地方のことであると考えられている。

 同じくイギリス人で、ロシアを旅行したジェンキンソンによる1562年(永禄五年)のロシア地図をみると、オビ川河口の東に"Iovghoria"(ユグラ)があり、その東隣にマンガゼヤに該当する"Molgomzaia"の記入がある。

 なお17世紀初めになると、ロシア人によって北極海沿岸の詳細な地図が作成されるようになる。北極海沿岸航路を航行しての往来が活発となり、地理情報が蓄積されていたことがうかがえる。

都市マンガゼヤの建設

 一方で北極海沿岸航路は、北極海を通って東アジアに到達しようとする「北東航路」の需要もあった。16世紀後半には、上記のイギリス人バロウやオランダのバレンツ等の航海者が、探検を行っている。

 ロシア・ツァーリ国は、これら外国勢力の活動を警戒。1600年(慶長五年)、モスクワからシャホフスコイ率いる遠征隊がタズ川とイェニセイ川へと派遣され、同年にタズ川河畔にマンガゼヤの町が建設された。

 1946年の考古学調査によると、当時のマンガゼヤは「多数の住民と発達した手工業および繁栄した商業をもと都市のよう」であったという。遺構からは、ヴェネチアのガラス製品や中国の陶磁器、ニュルンベルクの貨幣等が発見されており、マンガゼヤの町の商業取引が活発であったことがうかがえる。

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マンガゼヤへの航路

 1619年(元和五年)までにマンガゼヤで審問された170人の産業者の申告から、北部ロシアからマンガゼヤまでの航路を知ることができる。

 これによれば、北部ロシアのアルハンゲリスクやホルモゴルイあるいはクロイ川河口から出発し、カニン半島を迂回、あるいはチジャ川とチョシャ川との連水陸路で横断。コルグエフ島の側をとおり、ヴァイガチ島と大陸岸との間のユゴール海峡を通過して、カラ川河口のカラ湾に達する。

 ここからはヤマル半島を迂回せずに、半島の中ほどにあるムトナヤ川とゼレナヤ川との間をむすぶ連水陸路を利用して半島を横断。オビ湾からタズ湾に進み、タズ川河畔のマンガゼヤの町に到着する。

 航海の所要日数は、好天に恵まれると1か月余りであったが、平均して3~4か月を要した。しかし、陸路で行った場合は、1ヶ年を要したというから、この航路の利点は大きかった。

 北極海沿岸航路では、主に「コチ」という航海用の船で行われていた。特にマンガゼヤへの航海は、ヤマル半島を横断する際に連水陸路を少人数で引き移す必要があったため、小型のコチ船が用いられた。この船は普通10人の乗客で、積載量は大きい場合でも約10~11トンを越えなかったとされる。

活発な商船来航

 都市建設以降、マンガゼヤには都北部ロシア沿海地方アルハンゲリスクやホルモゴイなどから、毎年多くの商人や産業者がコチ船でやって来た。1601年(慶長六年)には40人を乗せた4隻のコチ船が来航。1602年(慶長七年)も同様であった。1610年(慶長十五年)には、16隻のコチ船で160人が到着した。

 1611年(慶長十六年)には北部ロシア沿海地方から26隻のコチ船が出帆したが、天候が悪くて引き返した。1612年(慶長十七年)には16隻、1613年(慶長十八年)には17隻、1618年(元和四年)と1619年(元和五年)にも、海路で多くの人たちが到着したという。

 しかし1619年(元和五年)、トボリスクの地方長官クラーキンがシベリアからヨーロッパ・ロシアへの往来に北極海航路を使用することを禁止。翌年、ロシア・ツァーリ国政府は、この禁止命令を正式に承認した。ドイツ人など外国商人による海上航路でのシベリア進出継続に対する警戒とも、トボリスクを経由して東シベリアのレナ川方面へと通じる南方交通路の開発を図ったためともいわれる。

新たな交通路

 とはいえ1619年(元和五年)の北極海航路禁止以降も、マンガゼヤは盛況だったとされる。マンガゼヤへのルートは、オビ川下流のベリヨゾフあるいはトボリスクからオビ川を下航し、オビ川河口からオビ湾とタズ湾を航行してマンガゼヤに到着するという航路が用いられた。

 トボリスクからマンガゼヤまで行く水路の全長は約3,000キロメートル余りあり、難所も多かった。所要日数は、好天の場合で8週間、悪天候のときは13週間からそれ以上を要したと、クラーキンは報告している。使用された船は、やはりコチ船であったが、この航路では陸上で船を移搬する必要がなかった。この為、35〜40トンの大型のコチ船が使用され、貨物のほかに乗組員と旅客を合わせて20〜27人の人間を乗せた。

 マンガゼヤに来航する主要な商人は大資本をもち、各種の商品を積み込んでいたという。マンガゼヤには、オオジカの皮、雌牛の皮、小刀、網、火薬、鉛、小銃、衣服、履物、糸、蝋燭、白堊(石灰岩の一種)、穀物、ひき割り、スキー、手袋、羅紗、ビーズ飾り、小鈴、首飾り、大鍋などをもって来て、これらの商品を、もっぱらクロテンや北極ギツネ、ビーバーなどの毛皮に替えた。

クロテンの毛皮

 マンガゼヤからもたらされるクロテンの毛皮はよく知られていた。既に1588年(天正十六年)のモスクワの毛皮市場では、クロテンの毛皮といえば、ペチョラ産のものとともに、マンガゼヤ(Momgosorskoy)産のものが優良品とされていたという。

 マンガゼヤを通過する毛皮取引の規模も極めて大きかった。1630年(寛永七年)には2,350人が、税関に78,989匹のクロテンを提示。1634年(寛永十一年)には982人が48,760匹のクロテンを運んできた。1635年(寛永十二年)には52,420匹。1637年(寛永十四年)にはツルハンスクにおいて46,380匹のクロテンが登録された。このときマンガゼヤ郡全体では、87,210匹のクロテンだった。

 しかし1640年代になるとマンガゼヤを往来する商人たちは減少していく。この地方の毛皮資源は既に枯渇していて、毛皮産業の中心はもっと東方のレナ川方面へ移りつつあった。1638年(寛永十五年)、ロシア・ツァーリ国はレナ川河畔への砦建設の為の部隊を派遣。その理由について、西シベリアの多くの塞市や砦で、クロテンおよび他の毛皮が未納となっていることを挙げ、原因を獣が取り尽くされた為としている。「このレナ川は、もう一つのマンガゼヤとなるだろう」と訓令の中で述べている。

マンガゼヤ市の終焉

 1650年代以降は、ますますマンガゼヤへの渡航者は減少。1658年(万治元年)には一人も来なかったという。1667年(寛文七年)、トボリスクの地方長官ゴドゥノフは、オビ湾とタズ湾を経由してマンガゼヤに往来する海上航路の禁止を命令。マンガゼヤへの物資の運輸はエニセイスクを経由して行うこととした。

 1672年(寛文十二年)、ロシア・ツァーリ国の君主アレクセイは、マンガゼヤ市の廃棄を命令。その後、マンガゼヤの場所には小さな砦が建てられ、18世紀にはこの冬営所に数十人のコサックが住んで、ネネツ族から税を集めていたとされる。

 一方で北部ロシア沿海地方とマンガゼヤを結んでいた北極海沿岸航路は、完全に途絶えた訳ではなかったらしい。17世紀末には、オビ川とタズ川との河口に、毎年30隻から40隻のコチ船がカラ海を経由して到来し、ネネツ族と毛皮交易を行っていたという。

参考文献

  • 三上正利 「十六ー十七世紀の北極海沿岸航路ーマンガゼヤ航海ー」(『史淵』巻100 九州大学文学部 1968)

*1:"Malgonzei"あるいは"Molgonzei"は、エネツ族(イェニセイ・サモイェード族)の一氏族名で、正しくはモンカシ(Mongkasi)とされる。