戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

懸塚 かけづか

 遠江国天竜川河口部に位置する港町。天竜川流域と遠州灘、太平洋を結節する水運の拠点を担い、遠州灘海運の中心的地位を占めた。

天竜川河口の港町

 天文十年(1541)、南浦を外港とする高松社(一宮社)の造営用材が、天竜川上流部から下されて懸塚に集積されている。このことから懸塚が、木材をはじめとする天竜川流域の物資集散地であったことがわかる。

 文明十七年(1485)九月、禅僧・万里集九は、三河国から遠江国に入った。十六日に懸塚に着いて「舟師之家」を借り、翌日、銭500文で船をチャーターして小河に向かっている。このチャーター船は、「橋の如く」大きかったという(『梅花無尽蔵』)。懸塚が大型船の発着する、水運の発達した大きな港町であったことがうかがえる。

遠江の主要な港

 永禄三年(1560)三月、今川義元は、清水に繋留してあった中間藤次郎の新船一艘に対する諸役免除を認めた。その書状には、今川氏領を代表するとみられる七つの港が具体名を挙げられている。その中で懸塚は、遠江国内では唯一挙がっている。戦国期、遠江国今川領の主要港湾であったとみられる。

 永禄十二年(1569)、今川氏真が武田氏に追われ、掛川城から脱出する。その際に北条領への渡航地となったのも懸塚だった(「家忠日記増補追加」)。先述の万里集九の例とあわせ、懸塚が太平洋航路の中継港であったことがわかる。

参考文献