備後国の福山湾に面した港町。中世までは蔵王山から南へ突き出た深津丘陵(深津高地)によって深い湾が形成されていたとみられる。現在の広島県福山市東深津町*1。9世紀の文献に市場の賑わいが記されており、中世においても活発な商取引があったと推定される。
古代の深津市
9世紀前半に成立した『日本霊異記』下巻第27「髑髏の目の穴の笋を掲キ脱チテ、祈ひて霊しき表を示す縁」に深津市がみえる。物語の時代は宝亀九年(778)、登場人物は備後国葦田郡(広島県府中市から福山市新市町あたり)の住人。深津市は人々が正月に必要な物資を買い揃える場として描かれ、そこには讃岐国の人も訪れている。
国府の所在する芦田川中流域の人々にとっての物資調達の場は、国府にある市ではなく、福山湾岸に位置する深津市だったことがうかがえる。内陸交通と海上交通の結節点として、古代から重要な場所であったことが分かる。
京都と備後をつなぐ経済拠点
鎌倉末期の元徳二年(1330)夏、歌島(現在の広島県尾道市の向島)の西金寺で写経された経巻が、厳島神社に奉納された。この経巻の紙背には、歌島を拠点とした人々の手紙や文書が残されており、現在に『反故裏経紙背文書』として伝わっている。
その中の大集経巻第七に残された「覚道書状」には、京都から備後方面へ送られたと考えられる「さいふ(割符)」を、「ひんこ(備後)のふかつのいち(深津市)」にある尼御前の仮屋で換金するよう指示する内容が記されている。深津では鎌倉末期においても定期市が開かれ、そこに尼御前と呼ばれる女性の金融業者がいたことや、京都から送られた割符、つまり為替手形を現金化することが可能であったことが分かる。
この時期、深津は地域経済の拠点としての役割を果たすのみならず、京都と在地の経済を結びつける結節点にもなっていたとみられる。一方で、当時の芦田川河口部には港町草戸が繁栄していた。しかし、歌島近辺の人々にとって、深津の市は経済的には草出以上に重要な場所であった可能性がある。
毛利元康の支配
鎌倉末期以降の深津の状況は、不明な点が多い。天正十九年(1591)、毛利元就八男の毛利元康が備後神辺城主となり、安那郡や深津郡、沼隈郡など備後南部を領した。近世の『備後古城記』や元康の子孫の厚狭毛利家の記録によれば、慶長三年(1598)頃には深津丘陵の突端である現在の王子山に城を築いていた。元康の嗣子元宣は、この城で生まれたとされる。
同じく近世成立の『備陽六郡志』によれば、深津八幡神社(出崎八幡)の宮の下は「蔵之崎」と呼ばれ、元康時代の米蔵の跡と伝えられていた。付近には「米座」の字名が残っており、「市場」の地名も近世には存在していた*2。元康は古代以来の流通拠点であった深津を、新たな本拠としようとしていた可能性も指摘されている。
水野勝成の入部
しかし慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で敗北した毛利氏は、周防・長門の2カ国となり、元康は長門国厚狭郡に所領を与えられて移っていった。その後、備後国には水野勝成が入部。芦田川河口部に城下町を建設する際には、神島村・深津村・府中などの商人が福山城下に集められたといわれている。
水野氏が地域経済を継承・掌握する上で、深津村の商人の存在が重要であったことがうかがえる。同時に備後南部の経済が、深津を含む複数の拠点のネットワークによって構成されていたことも知ることができる。
参考文献
- 鈴木康之 「草戸千軒をめぐる流通と交流」(柴垣勇夫 編 『中世瀬戸内の流通と交流』 塙書房 2005)
- 小林定市 「毛利元康と深津王子山城(福山市東深津町・深津市の虚説)」(『備陽史探訪』135号 2007)