戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宿毛 すくも

 土佐国幡多郡の西部、伊予国宇和郡から流れる松田川の河口部に位置する港町。中筋川の廻廊によって土佐一条氏の本拠・中村とも通じており、室町・戦国期、同氏の西の外港であったと思われる。

土佐中村の西の外港

 16世紀前半、土佐一条氏と周防大内氏は、非常に緊密な関係にあった*1。そのため、一条氏の支配地域である幡多郡大内氏領との交流も活発になっていた。要人の往来の他、大内氏から一条氏への贈り物や、経済援助もかなり行われている。

  天文十二年(1543)十月、京都から土佐へ下向していた一条房通は、安芸厳島で越年し、大内義隆から進物を受けた後、土佐へ向かっている。このことから、一条・大内両氏の交流は、瀬戸内海から豊後水道を経由するルートであったことが分かる。その際の幡多郡側の港が、中村と中筋川で繋がる宿毛であったと思われる。

南予、豊後との交流

 16世紀末の『長宗我部地検帳』によれば、中村城下および宿毛湾北岸の大深浦、小深浦、錦周辺には「法華津分」と記された土地が多数検出できる。この「法華津分」は、伊予南部の法華津浦を本拠とする有力国人・法華津氏のかつての知行地と推定される。法華津氏は海賊領主的な性格を持っていた。法華津と土佐幡多郡との豊後水道を介した盛んな交流が考えられる。

  ほかにも「臼杵分」の記載が23筆あり、宿毛湾に注ぐ松田川の下流から河口部にかけて分布が集中している。「臼杵分」は豊後臼杵の関係者の知行地と推定される。さらに「法華津分」と「臼杵分」間には、明や朝鮮からの来航者の存在を想起させる「唐人名村」もあった。

土佐と九州南部、東アジアを結ぶ航路

 16世紀中ごろ、鄭舜功が著した『日本一鑑』には「夷海右道」という航路が記されている。これは南西諸島から日向、豊後、伊予、土佐を経て堺に至る航路であった。

 すなわち硫黄島屋久島種子島から北上し、薩摩の坊津、山川を経て大隅半島東南を迂回し日向灘を北上、細島(宮崎県日向市)から豊後南部の蒲江(大分県佐伯市)、そこから豊後水道を渡って伊予の「小路島」(高知県宿毛市鵜来島)そして「蒙島」(母島、宿毛市沖の島)に至る。

 「蒙島」からは「深港」、「柏島」、「駒妻」(古満目)、「清水」と幡多西海岸を南下して足摺半島をまわって与津、須崎浦戸などを経て堺に到達すると記している。このうち「深港」は宿毛湾の北岸、先述の大深浦、小深浦、錦周辺を指す。

  永禄十一年(1568)、土佐浦戸の船が大隅志布志湾沖を航行中に、肝付氏の警固と「懸合」になっている(「肝付家文書」332『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ二』)。実際に、上記の「夷海右道」を航行する廻船があったことが分かる。

  「夷海右道」における「深港」等の存在から、宿毛の港および幡多郡が九州と結びつき、さらに東アジアとも繋がっていたことがうかがえる。

参考文献

  • 朝倉慶景 「土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察」(『瀬戸内海地域史研究 8』)

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宿毛湾に浮かぶ大島の某国民宿舎から遠望した宿毛の町。中央に見える港は片島港。宿毛の市街地はさらに奥にみえるところ。

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宿毛湾に浮かぶ大島の最西部で、片島との海峡部付近から眺めた宿毛(松田川河口部)。宿毛の市街地はさらに奥にある。

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咸陽島。宿毛湾に浮かぶ大島のさらに沖に浮かぶ島。かつて宿毛を訪れた中国・明の人が故郷を懐かしんでその名をつけたという。

*1:大永年間、一条房冬は周防の大内義興の息女を迎えた。義興息女との間に生まれた子が、義興の子・義隆の養子となって恒持(後に晴持)を名乗ることになった。