戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

細島 ほそしま

 日向国北部の塩見川河口部の対岸に浮かぶ細島の港町。中世以来、日向灘海上交通の要衝として栄えた。

日向の要港

 『上井覚兼日記』の天正十四年(1586)二月十二日条で、美々津・細島に島津義弘御座船の水主が命じられていることがみえる。細島は多くの船や水主が存在する、水運の港であったと思われる。

 弘治二年(1556)に日本に来航した鄭瞬功の著書「日本一鑑」桴海図経巻之一所載の九州諸港の名前として「棒津(坊津)」や「志布志」、「耳(美々津)」などとともに「細島」が挙げられている。当時、細島が九州を代表する港の一つだったことがわかる。

畿内との交流

 16世紀中頃、瀬戸内海では堺商人が日向や薩摩から運ぶ「唐荷」(輸入品)について、海賊衆・能島村上氏による「唐荷役」徴収が問題となっていた。この時期、日向には堺商人や彼らが雇う塩飽の船が来航していた。

 『日記』の天正十二年(1584)五月廿一日条では、肝付兼寛が上洛のために美々津、細嶋から出船しようとしている。細島が海上交通の要衝であるとともに、先述のように畿内との間を商船が往来する港の一つであったことがうかがえる。

 実際、室の船頭らにより播磨など畿内周辺の製品が、細島周辺にもたらされていた。 天正十三年(1585)四月十一日、細島近在の塩見に逗留していた播磨・室の船頭・弥太郎が、覚兼に杉原紙20帖と酒樽を献上している。

土佐との交流

 細島はまた日向灘対岸の土佐方面との航路の基点でもあった。貞和五年(1349)十月、定善寺の日叡ら一向は、細島を出発して土佐、阿波を経由して上洛したとみられる。『日記』にも天正十三年(1585)八月七日、土佐の長宗我部氏の降伏が細島に伝わった事が記されている。細島・土佐間の密接な繋がりを窺うことができる。

参考文献

  • 『宮崎県史 通史編 中世』 1998
  • 東京大学史料編纂所・編 『大日本古記録 上井覚兼日記 中』 岩波書店 1955 (その他、上、下巻)