戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

法華津 ほけつ

 伊予南部の法花津湾に臨む港町。現在の愛媛県宇和島市吉田町法花津。戦国期、海賊衆的性格を持った伊予南部の有力領主・法華津氏の本拠地となった。

 法華津は北の法花津峠を抜ければ松葉西園寺氏の本拠・黒瀬松葉に通じる位置にある。宇和郡の中心である宇和盆地の、あるいは西園寺氏の外港としても機能したとみられる。

海上勢力法華津氏

 『宇和旧記』によると法華津氏は、本拠である法華津をはじめとして、宇和海に臨む海辺部と戸島や日振島などの島嶼部を知行していたという。その勢力は、宇和海一帯におよんでいたと推定される。

 天正四年(1576)十一月、法華津範延は「日振衆中」に宛てた書状で、出入りする船の商売物を日振島衆中で相談すること、寄り物(漂着物、漂流船)、流れ物は、ありしだい法花津まで報告することと定めている。法華津氏が勢力圏内の海上勢力に統制を加えていたことがうかがえる。

土佐、豊後との交流

 16世紀末の『長宗我部地検帳』によると、幡多郡西部の良港・宿毛やその周辺の錦、藻来津(藻津)に「法華津分」と記された土地が多数存在していた。これはかつて法華津氏が土佐幡多郡の一条氏から得た給地とみられる。このことから豊後水道を介して法華津と土佐幡多郡が水運で繋がっていたことがかがえる。

  法華津は16世紀中頃、豊後大友氏の侵攻を受けていた。永禄年間末には、大友氏に仕えた法華津氏の一族もみられる。豊後水道の対岸である豊後との交流も盛んであったと思われる。

参考文献

  • 石野弥栄 「伊予国宇和郡における戦国期領主の存在形態」(『瀬戸内海地域紙研究 8』) 2000

f:id:yamahito88:20210712225818j:plain

法華津峠展望台から眺めた法華津湾と法華津の町。

f:id:yamahito88:20210712225901j:plain

法華津の町並み。

f:id:yamahito88:20210712225947j:plain

法華津の町並み。

f:id:yamahito88:20210712230013j:plain

三島神社

f:id:yamahito88:20210712230052j:plain

日吉神社天正年間に法華津氏によって建立されたという。

f:id:yamahito88:20210712230137j:plain

福厳寺。

f:id:yamahito88:20210712230205j:plain

法華津本城の遠景。海に突き出した丘陵上に築かれた。